少なくとも、わたしは、知っている から
子どもにしても、大人にしても、何か悪いことをしてしまった。もしくは、悪いと思われることをしてしまった。そんなときに、どんな行動に出るだろう。
多くの場合は、それを隠そうとしたり、見られないようにしたりーーつまり知られないようにする、だろうか。
その心理はどこからくるのかしら。
それはつまり、知られなければ、見つからなければ、何をしても構わない、ということだろうか。
小さなこと、大きなこと、多々、多々、あるだろう。
それはたいした影響のないものもあれば、大きな影響を生むものも、あるだろう。
知人から聞いた、お子さまにお金を盗まれた話しを聞いて、感じるものがあった。
人のものを盗ってまで物欲を満たし、仲間内との関わりを求めた先に、価値があるのかどうか。それはわからない。けれど、そうして手に入れたものだとすれば、さらに新たなものが欲しくなったさいに、同じことを繰り返してしまうのだろうか。
どちらにしても、一度そんなことをしてしまったなら、信用はなくなってしまう。仮に違ったとしても、何かものがなくなったさいに、疑われてしまうことも仕方がない。その言葉に、どれだけの力が、あるのだろう。まして、その子たちは、嘘をついてまで自分たちが傷つくのを守ろうとした。相手がどう感じているかまでは気がつかないまま。
その人は今でも傷ついているし、悩んでもいる。
自分のことは敏感に気がつくのに、相手にまでは及ばない。
そうしたことも、要因にあるのかしら。
誰にも、知られなければ、見られなければ、咎められなければ、罰せられなければ、何をしても、構わない。
自分はそれで、何も困らないのだから。
たしかに、そうかもしれない。
自分が困らないのだから、むしろいいことばかりならば、そうしてしまう、ものなのかもしれない――
本当に? 本当にそうなのかしら?
たとえ、自分はそれでよかったとしても、それでいいの?
何も言われないからといって、誰からも責められないからといって、それをしていいわけではない。
その行動が、思考が、そもそも危ういことを、感じないといけない。
今回はたまたま発覚したから、まったく何もないわけではなかった。……発覚しなければそれでいい、というわけでもないし、公にされないことで、実は気がついていない(ばれていない)と思っているのは自分だけのこともある。
盗み、殺し、のように、わかりやすいものだけではなく、目には映らないようなこと、ささいなこと、そうしたわかりにくいものだってあるし、本人からしたら、よかれと思ってしているものも、あると思う。
いじめ、現場を顧みない管理者の改革、日常の会話、過度なフォロー、ルールやマナー、それはちょっとしたことかもしれない。そもそも、悪い、と自覚できないものもあるかもしれない。自分を正当化していることもあるかもしれない。何も気がつかないまま何も考えないまま何も感じないままの、こともあるかもしれない。
厳密に、こうでなければいけない、そんなことは、ないとも、思う。
誰かに見せるために、行動するなんて、そんな必要もない(こんなことまでしている、とわざわざ誰かがいるときに見せつける人もいるけれど)。
どんなことでも、すべからく、自分だけは知っている。自分だけは見ている。そもそもが、誰も知らないわけではない。見ていないわけではない。自分は、それを……。振り返って、それがよきものであるのか、どうか。後悔のないものであるのか、どうか。
自信をもって、歩めるのか。
それは、もしかしたら、きれいごとなのかもしれない。そんなことを言っていられる状況ではなかった場合も、あるかもしれない。けれど、
そんな、極論ではなく……
だからといって、何もしないわけにはいかない。
だからといって、私は、私として、生きている。
それでいいの?
その想いに耳を傾けて、気持ちに添いて、知られるとか見られていないとか、そういうことではなく、自分自身が納得のいく道を選べているか。
後ろめたい気持ちを持たない純なる響きが奏でられるよう願う。
たとえ、今はまだ、気がつかなくても。
少なくとも、私は、そこにいる。
私は、知っている。
そのとき、私に、何が、できるのか。
問いかけてみるのは、よいかもしれない。