糸 ~雨~
「雨がすごいわねぇ」
窓に指を滑らせる所作に何とも言えないなまめかしさを感じながらそのつぶやきを聞いたのはもうかれこれ何分、何十分前のことだろう。部屋から眺めていてさえ陰鬱を感じさせるあまたの糸に絡まれながら、当てもなく外を歩いている。いや、当てもないのは私だけかもしれない。
足元どころか、衣服までもが雨色に染められていくようで、所在なさげに傘が電波を探し求めるように くるりくるり 動いていたが、ついに諦めて停止した。
気持ち、ほんの少し空を見上げるようにして歩く姉の横顔は雨に濡れるのも厭わぬような晴れやかな心持に見え、もっと言うと楽しそうにも見えた。能天気に聞こえた言葉も、すなおに感じたものに違いなく、それこそ真実の言葉だと、私には思えてならなかった。疑問も何も、すなおに口にすれば、真実の言葉になるのだろうか。わからない。そんなふうにはならないと、どうしても思えてしまう。私には、確かめるどころか、口に出すことすらできなかった。
連日続いている暑さに比べると、今日は幾分涼しかった。それは間違いなく雨のおかげでもあるけれど、かといって決して歩くのに楽ではなかった。暑さにしてもところどころに潜んでいて、服が体にまとわりつく感じが気持ち悪い。中心はすべて雨だった。今は虫の音も雨にかき消され、聞こえない。姿も見えない。いつもはどこかしこにいて、声にしろ、姿にしろ、何かしらの存在を証明するものがあったけれど、今は何もない。この世からその存在が忽然と消えてしまったと言われても、信じてしまいそうになる。声も、姿も見えないのだから。それとも、どこかにいるのだろうか。わからない。……命が、そんなに簡単に消えたり現れたり、するわけない。きっと、どこかに潜んでいるのだろう。それとも、本当に、いないの、かな。
水のはねる音が聞こえる。はねた音に気を取られてすっと意識が抜けると、今何を考えていたんだろう、足元に聞こえる水の音を見つめてみても何も聞こえてこない。ため息をこぼしそうになって、ぐっと飲みこんだ。気持ち悪さが、胸の中に溢れてくる。それは暑さのためか、それとも。まとわりつく空気に、ぬめりとした膜が包みこんでいるのを感じ、それがなんだか、人の手のようにも思った。
目の前に広がる雨の海に、街並みがすっぽり飲みこまれているのを見た。私はこの暑さに包まれているのか、雨に包まれているのかわからなくなった。どこかで車の音が聞こえる。ときおり、私たち以外の人が歩いているのも見かける。それでも、世界には私たちしかいないような、そんな錯覚をしてしまうほど、圧倒的な静けさに包まれていることだけは、私にもわかった。私の体を包んでいるのは間違いなくそれで、それが何ともいえず冷たい、恐ろしいものに思うのは、どうしてだろう。わからなかった。
散歩に行きましょうか、姉のほうを見ると、にこやかな表情で前方を見つめていた。しばらく姉のほうを見ていたけれど、姉は私の様子に気がついていないのか、変わらず前を見、歩いている。楽しみねぇ、再び姉の声が聞こえたと思ったけれど、それは今話しかけてきたものではなく、ただただ頭の中に直接よみがえってきたものだと気がついた。雨がすごいわねぇ、耳から入る音は雨のしずくが語るものだけで、単調なリズムがあの静けさを作り出していた。姉は隣を歩いている。気がつけば、こうして外を歩いている。どうしてこんな雨の日に散歩に行きたかったのかな。理由を話していたような気もするけれど、思い出せない。楽しみねぇ、ただ声だけが響いてくる。
外に出てからというもの、姉はひとり言こそあれど、話しかけてくることはなかった。退屈そうな表情も見えず、ただ隣を一緒に歩いている。私は何のためにいるんだろう。私が今ここに、隣にいることと、いないことに、どんな違いがあるのだろうか。そんなこと、考えていても仕方のないことだけれど……つい、そう考えてしまう。それに、私からも話しを振ることはなかった。……話しかけることが、できなかった。姉は、どんな気持ちで歩いているんだろう。私と同じように ひそひそ 言葉が聞こえてくるんだろうか。それは、私の声? 他の誰かの声? それとも。それが何かもわからないまま、ただ一緒に歩いている。姉は――けれども、楽しそうに、見えた。
少しずつ、うんざりとしてきた。雨ばかりが淡々と語りかけてきて、主張も強い。ひそひそ 周りから、いろんなことをつぶやいている、声が聞こえる。風はささやかな吐息のように肌に触れるだけで、何かを訴えてくることもない。それなのに、ただただ雨ばかりが勢いよく飛びかかり、まとわりついてくる。それは防ぎようもなく、仕方のないことと思うしかなかったけれど、こうまでしつこいとうんざりとしてくる。言葉としてはとらえられないほど小さなものではあったけれど、しだいにひょっこりと顔を出し にたにた 笑みを見せつけるようになった。かわいげもなく、顔を出してはいつの間にかいなくなり、現れては消え、現れては消え、うっとうしい。いくら振り払おうとしても、離れなかった。繰り返し、繰り返し、しつこいほどに繰り返されていく中でだんだんと笑い声が聞こえてくる。どこにいるんだろう、わからないほど、四方八方いたるところから――突然、傘を手放そうとするイメージが頭の中で一気に膨らんだ。急速に脳に焼けついたその力があまりにも強く、突き破るまま私の記憶をいじくり回し、体のほうがついていけずに吐き気のような気持ち悪さが襲ってくる。意味のわからないイメージが再び目の前に見え、それが本当に起こりそうで怖かった――と思うと同時に、傘をしっかり握っていることに気がついて安堵した。それでも、思わず ぎゅっと 握りしめてしまう。感触が、伝わっていく。力をゆるめると、すっと、引いていくのがわかった。ただ、気持ち悪さは残っている。しつこく、残っている。のど元までこみあげくるそれをすべて吐き出せるのなら、楽になれるのかな。わからない。大きく息を吸い、聞こえないようにゆっくりと吐く。繰り返す。いつの間にかに、小さく顔を出していた何かはどこかへと消え去っていた。ところどころ衣服が雨に濡れている。傘は、しっかりと、握っている。
雨の音が久方ぶりに聞こえてくる。滑りこんできた音に懐かしさを覚え、どれだけの時間が経ったんだろう。今どこを歩いているのか、周りを見渡してもまるでわからない。そんなことに気がつくと、急に歩くリズムが変になった。うまくいかない足取りに、ますますどこをどう歩いていたのか、どこを歩いているのか見失ってしまった。どこから途切れたんだろう、いくらたどってみても、もう戻れない。行き場なく姉のほうを見てみると、いつの間にかに私のほうが姉よりも前のほうにきていた。何の不安そうな顔もなく、軽やかな調子で歩いていた。穏やかな表情で、空でも眺めているんだろうか。何を考えているのか見えない。どんな世界が見えているんだろう、同じように空を眺めてみる。ただただ雨が映るばかりだった。
歩道のない平坦な道。堀があるわりには建物がなく、平地が広がっている場所。竹林が上から覆いかぶさっているところ。改めて注意深く周りを見つめてみても、まったく知ったところにはつながらなかった。人気もまるでない。雨のせいとは思えないほど。まるで、どこかへ迷いこんでしまったかのようだった。異世界、幻の住人、怪物、そんな想像が頭をよぎる。踏み込んだらもう、帰ることはできない。次の曲がり角を曲がったらきっと、いや、その次かもしれない。
そんなことを思うほど見覚えのない道だったけれども、おとぎ話のような何かが現れるわけもなく、穏やかなものだった。それどころか、疾走して飛びこんでくる車のような危険も、背後にすっと立っている男のような怪しい気配もない。いつの間にかに森の中でも歩いているような気分になっていたけれど、知らない道なだけで、どこにでもありそうな街並みが見えるだけだった。
相変わらず、どこに向かっているかは定かでなかった。散歩というものはそういうもの、気の赴くままに進路を変えているのかな。そうして、ゆっくりとした歩調を保っている。その穏やかな瞳には、行き先が映っているんだろうか。でないと、あんな表情ができるなんて、信じられなかった。
ぐっと一息ついて、目を細める。肩を下して、胸に手を当てる。鼓動が速くなっているのがわかる。いまだに、足取りがどこかおかしい。水をはねさせる感じが歩き方をそのまま教えてくれているようだった。それはきっと、心情も表していて、
「雨ってふしぎねぇ」
いつの間にか私よりも前にいて、微笑んでいる、姉。再び空を見上げるころに、ようやく姉の言葉が戻ってくる。
「雨の粒は点なのに、見えているのは線だものねぇ。空と地面が惹かれあっているみたいね」
疑問のような、感想のような。問いかけているような、ひとり言のような。どれとも判別のつかない、言葉。脳裏にこだまするものとは違って、しっかりと、鼓膜を震わせて届く言葉に、かえって、違和感を覚えた。私はどうすることもできず、当の姉も何かを期待しているようなそぶりも見えずに、空を見上げてにたにたしていた。私には、私に向けられた言葉とは、とても思えなかった。姉の姿を見ながら、胸の辺りがざわつき、落ちつかない。耳元ではずっと 小さく 小さく しきりに何かをささやかれているような心地があった――「 」
何度も、何度も、語りかけてくるように、何かを伝えたいように、それとも、あざ笑うように、言葉にならない何かを、私に、私の耳に、私の頭に、私の記憶に、語りかけてくる。そうしているうちに、のろく視界がゆがんできたと思ったら、路面はもはや川のような姿をしていた。いや、海の底だろうか。言葉はまるで波のようでいて、泡のようでいて、よるべもなく漂っている。ふしぎねぇ。
ぷくぷく 呼吸をするたびに、泡の代わりに言葉が浮かんできていた。けれど、それは「ことば」というだけで、どんな言葉であるか、わからなかった。直感的に言葉であると信じただけで、実は違うものなのかもしれない。空間のすべては水と言葉で沈んでいる。浮かんでいる? 私は今、どうやって呼吸しているんだろう。ふしぎねぇ、ふしぎねぇ。
少しずつ、ゆがみが増してきているように感じた。見上げると、そこはさらに激しくゆがんで見え、きっと水底から水面を見るとこんな感じなんだろう、私は本当に水の中を歩いているように思った。歩いている? 私が通る後に、流れが作られている感じが、何ともおかしいものだった。泳いでいる? このまま溶け合うように、流れや成り行きに身を任せてみるのも、おもしろい。どこに行きつくのだろう。よどみなく、なだらかに。そのうちきっと、泳ぎ方も忘れて、溺れてしまうに違いない。私の意思とは関係なく、体の動かし方も忘れてしまうだろう。そうして、私の体も、頭も、心も、何もかも、私のものではなくなってしまう――ような、気持ちに ふしぎねぇ、ふしぎねぇ――
あぁ、まただ。と思うよりも、震えのほうが先に全身に語りかけてきた。はっとしたときにはもう遅い。後ろから、私を、抱きしめて、いるのを、感じた。気味の悪い、気持ちの悪い、何か。形容しがたい何かが、私を抱きしめている。ねっとりとべとついた指で、するするとお腹から胸、喉元まで這いずりまわり、頬に触れたとたんに ぼとり 腐り、鼻の奥に直接それを貼りつけられたような、熱とにおいを感じた。声も出せず、耳元をなめるような吐息に、全身から力が抜け、ただただ震えている。抵抗することもできず、なぶられるまま、あざけるような声が聞こえてくる。それは四方から聞こえてきて、どれも私の声色に似ていた。実際に、私が喋っているのかも、しれなかった。頭が痛い。記憶のような、夢のような、妄想のような、どこかで見たことがあるような気がしてならない、そうとしか思えないものが、頭の中でひらめいては駆け巡り、浮かんでは再生される。思い出したくもないのに無理に思い出そうとしてしまうような、そのイメージが強く意識されてしまうたびに、吐き気を覚える。絡みつく指、肌にささやく、鳴りやまない声、脳裏に浮かぶ。わなわな 全身に伝わっていく不快な感情に抵抗することもできない。そのうち
「ねぇ、容子、これを見て」
いつの間にかに、姉は私を見つめていた。姉はほんの半歩ほど前に立っていて にこにこ 笑みを浮かべている。私はその表情を見ながらしばらく動けずにいた。雨の音が耳に飛びこんでくる、周りの景色が視界に戻ってくる。ここは何の変哲もない道で、ただ人気の少ない、そんな場所だった。いつからこうしていたんだろう。そんなことに悩みを深める前に、姉が指をさしているのが見える。言葉が返ってくる。そうして姉は、視線を指さした方向に誘導した。
そこにはある民家があった。知らない家だった。そもそも、ここがいったいどこのあたりなのか、まったくわかっていない。少なくとも、見知ったところではなかった。
これが、どうしたというのだろう。姉は、私に何を見せたいのだろう。あえて、なのか、それから何か言うことはなかった。ただうっとりと民家を眺めているだけで。
何を見ているのだろう。何が見えているのだろう。それほどまでにうっとりできる何かが、あるとは思えなかった。そこには普通の家があって、雨が降っていて、姉が見ている。私に見えるものはこれだけで、それ以上も以下もなかった。姉にしか見えない何かを見つめているのだろうか。私には見えないものが、見えるのだろうか。わからない。お墓参りに行きましょうか。あぁ、思い出した。そういえば、もともとは今日、お墓参りに行く予定だった。こんな雨だからかな、姉から話しはなかった。その代りなのかな、散歩に行きましょうか、わからない。
あぁ、まただ。また、余計なことを考えている。考えようとしなくても、自然にわいてくる。いくら止めようと思っていても、これだけは変わらない。心臓が絶えず血液を送り出してくれているように、不安が体中を駆け巡っている。でも、どうしても拭いきれない。姉には、他の人には、こんな気持ちはわいてこないのだろうか。頭を振る。それでもべったりと、肩に手を置かれている。もう、考えたくない。
ここから逃げ出したかった。雨に打たれながら、涙の代わりに感情を発散させたかった。いや、それよりも、何も考えずにただ、走っていたかった。実際には、私はここから動けずにいる。動けなかった。何か、ぴたり、と貼りついたように。
私は再び民家を眺めてみた。今は、それしかできなかった。姉に、答えを聞くこともできない。そもそも、答えなんてあるのかどうかもわからない。姉は相変わらず、うっとりとした瞳で見つめている。あぁ、きれいだ。本当に、きれい。ぐるりを見渡して、何か価値があるものといえば、それだけだった。雨が降りている、屋根に水がはねる、窓は閉じられている、カーテンはしまっている、垣根に守られている、人の気配が感じられない。
ふと、小さなものに目が留まった。黒い点のようなそれは、錯覚かと思うほど宙に浮いて微動だにしなかった。目を凝らして見てみると、少しずつそこから足が生えてきて、気がつけば蜘蛛の形へと姿を変えた。宙に浮いていると思ったのは透明な糸によるもので、蜘蛛を中心に広がって、巣になった。軒下に作られたそれは、この民家に守られているように、雨水をしのいでいた。
この家そのものではなく、蜘蛛を見ていたのだろうか。わからない。疑問が拭えなかった。何をそんなに見惚れているのだろう。特別に惹かれる何かが、あるとは思えなかった。
「雨に、なんだか映えているわねぇ。月夜に見たときも独特の美しさを秘めていたけれど、雨もいいわねぇ」
そんな私の気持ちを尻目に、またひとり言とも思える言葉をつぶやいた。こちらを見向きもしない。惚けたように、きっと蜘蛛を、見つめている。かすかに口元を、緩ませている。視線をそらして目を細めると、唇を噛んでいた。蜘蛛を見つめてみた。
ちょうど軒下に巣を作っている蜘蛛は、雨水をしのぎながら悠々とした様子でたたずんでいた。雨のためか、巣もはっきりと見える。巣には蜘蛛以外の住民はおらず、ただ中央に孤独であった。その他に……何があるだろう。物珍しい何かがあるわけでもない。そこらへんにいる、どこにでもいる、そんなものしか見えなかった。
本当に、それだけなのだろうか? ちゃんと見ようとしていないだけではないだろうか。もっと、きっと、すごい何かがあるに違いない。あんなにうっとりとした表情を見せているのだから。そこに、特別な何かを、見出しているに違いない。ただ見ているだけでは見落としてしまう何かを、見出しているに。
そうは思って注意深く見つめてみても、私にはやっぱり何も見出せなかった。まだまだ姉ほどに見ていないだけだろう、そうは思って注意深く見つめてみても、何も見つけることができない。しだいに集中力が切れてきた。目の渇きに耐え切れず、まばたきが増える。そうやって ぱちぱち 繰り返している間に気持ちもなえ始めた。舌でぬめりとするものをなめとる。じんわりと、にじんでくる。そういえば姉は、この蜘蛛が雨に映えていて美しい、と言っていなかっただろうか。蜘蛛を見る雨を見る……私には何を持って美しいか、わからなかった。
ちくちくちく 突き刺さるように、時間が過ぎ去っていく。しだいに痛みを感じてきた。いつまでこうしていればいいんだろう。私はただ、姉の見ているものが知りたかった、見てみたかった、とそう思っているだけなのに。
「言葉に表す必要はないわ。ただ、何となく見ていて美しい。そう感じるだけだから」
それが、私にはわからないのだ、と どうすれば伝えることができるのだろう。同じものを見ているのに……見える、ただそれだけのことがこんなにも見えないこと、この言い知れない気持ちをどんな言葉で伝えればいいのか。何を発しても間違いのように思う。いや、何が違うのだろうかどうして。そもそも納得がいかない。姉のようにきれいだとは、とうてい思えない。
雨が強くなってきた。はっきりと、そう感じられるほどの勢いがあり、私の声はきっとこの雨に飲まれて届かないのだろう、と思った。そうやって地面に広がっていく私の声は、植物が根を張るように、ここに留まってしまうのだろうか。わからない。そんなこと、頭がぐちゃぐちゃになる。雨と蜘蛛と姉、それらを見比べながら、さらに頭がぐちゃぐちゃになる。何も考えられなかった。いや、考えても考えても、何か別のものがあふれて、ただあふれていくだけだった。
何となく、見ていて、美しい。言葉に表す必要のないもの。言葉に、表す、必要のない、なら、いったいどうやって理解すればいいんだろう。その意味に、届く気がしなかった。どうやったってそれを見つけることも、見つめることもできないのでは、と思うと、胸にぽっかりと穴が開いたような感覚でいっぱいだった。そうして開いた穴に飛びこんでくるのは、嫌な気分になるものばかりで、ますますこの場から逃げ出したくなってしまう。
瞳に映っているものはなんだろう。私は今、何を見ているんだろう。ただただ目を向けているだけで、何も入ってこなかった。たぶん、雨と蜘蛛と姉。ぐるぐると回っている。そうやって視線が動きながら ぱくぱく 魚のように呼吸していた。唇が動いている。かすかに、吐息のように漏れている。それらはきっと、でも、雨に飲まれているに違いない。
「きれいなわけじゃなくて、美しいのよ。きれいさと美しさはまた別物だわ」
それとも、やっぱり留まっているのだろうか。大きく目を見開いていると思っていたら、姉の姿をとらえていた。姉はちらりと私のほうを見ていたが、すぐに視線は向こうに戻る。私はすぐには動けなかった。急に胸が苦しくなって、静かに大きく息を吸った。服の上から握りしめながら、いまだに頭の中が混乱している。それが、無意識だったのか、意識的だったのかもわからない。それでも私の思い当たるものと姉の言葉が妙にがっちりとしているから、それが事実なのは言うまでもなかった。心臓が叫んでいるように速い。息を落ちつかせたい。ジグソーパズルがバラバラになっていくような頭の中で、姉の表情だけがくっきりと残っている。わからない。それでも姉が何も言ってこないことに、少なからず安心していた。
きれいさと美しさ。少しずつ戻ってきた心に、ふとよみがえってくる。きれいさと美しさ。そんなものわける必要があるのだろうか。きれいさ、美しさ。差があるようにすら、見えない。きれい、美しい。ぐるぐる、無限回廊を歩いている、ぐるぐる、回っている。
ふいに、行きましょうか、と歩き出した。はっとしたときには私も歩き出していて、どのくらいここにいたんだろう。あまりに自然な感じに、ちょっと立ち寄ったくらいにしか思えなかった。歩き出した姉の背中には、少しも未練を感じさせず、ずっとこうやって歩き続けていたようにすら思えた。
歩きながら、私はいまだあの民家と、雨と、蜘蛛を見ているような気分だった。あの静けさの中に閉じこめられているように、姉も話しかけてはこない。雨の音だけは今もあのときでもまったく変わりないから、全然気にならなかった。むしろ、その雨の音が変わりないから、ますますそんなふうに感じているのかもしれない。見えている線も変わらない。細く、長い、糸のような線が、遠い空から落ちてきている。大地に沈んでいる。どこからも人の気配がまったく感じられないことも影響しているのだろうか、見ているような気分ではない。私はまだあの民家の前に置き去りにされていた。私だけではない、姉もいた。この世に私たち二人しかいないようにも感じられ、そうだったらいいのにな、と本当に心から願った。雨の線がすべてを消し去ってしまえばいいのに。……むしろ、すべてをつなぎとめてしまうだろうか。空と大地のように。だから、お互いに、離れ離れにならずにすんでいるのかもしれない。
風が少し出てきた。通り過ぎざまに頬を軽く打たれる。何となく頬に触れた後、唇に手を持っていく。指が歯に触れると、すぐさま手を引っこめた。
周りの景色に目をやると、桜並木のほうまで来ているのに気がついた。今日、初めて、知っている場所に出た気がした。迷いなく姉は歩いていて、初めからここに来るためだったんだろうか。それとも、たまたまだろうか。
花の役割を終えた桜は、それでもなおいっそうと咲き誇るように葉をゆらしていた。雨の暗がりで、緑がより濃く見える。むしろ、黒に近い。道を覆い隠すようにしたそれは、どことなくトンネルのようにも見えて、どこか恐ろしいところへ続いているように思った。一瞬身震いし、立ち止まりそうになった。けれど、姉は相変わらず迷いない足取りで歩んで行くから、私も何とかついて行くことができた。ここに置いていかれるほうが、よっぽど怖かった。
突然姉は道を外れて木々のほうへと足を踏み入れた。そこまで密集しているわけではない木々の群れを、傘を上手に動かしながら器用に進んでいる。道と呼べるようなものではなく、足元はぐちょぐちょで、服も少しずつ濡れていく。それでもあまりに迷いのない足取りに、私は必死についていくしかない。
よくわからないままについていくと、すきまのような場所に出た。たしかに密集していない木々の中ではあったが、その他とは違って明らかに空間としての余白を感じ、ぽっかりとここだけ穴が開いているようだった。そのすきまに ぽつん たたずむように、一本の桜の木があった。
すきまの入り口で、姉は立ち止った。私は姉の左隣で立ち止まると、姉のほうを見た。木々が暗がりを連れている中ではどうしてか明るく光っているようにも見える桜を見上げていて、そのうち吸いこまれるように桜のほうへ歩き出した。私は動けなかった。近づこうとは思わなかった。この雨のせいもあるのかもしれない。得体のしれない空気が、この桜の木に近づくことをためらわせた。
傘を背にした姉の姿をしっかり見つめることはできなかった。たぶん、手を伸ばしたら幹に触れられるくらいまで近づいて立ち止まっていた。姉はどこを見ているんだろう。わからない。もう、考えたくない。そう思うと、つい姉から目を逸らしてうつむいた。目の前には水たまりがところどころにある土が見える。土はひどくぬかるんでいる。空の灰がそのまま染みこんでいるみたいで、土の中に紛れこむこともできなかった雨たちがその姿をさらしていた。にじみ出ているように。妙な感じがあって、とても違和感があった。この感じを、どんな言葉で表せばいいのか、わからなかった。
見ているうちにふと、土の中はどうなっているのかが気になった。もっと言うと、土の中にある木の根っこが気になった。足を取られてしまいそうな場所で、こんな立派に木を支えている根が。どんな力を持っていれば、どんなことをしていれば、こんなに悠々とたたずむことができるんだろう。わからない。けれど、それがわかれば、それができれば、不安もなくこうしてしっかり立てるのかな。
あぁ、結局、考えてしまっている。何を、どうしていても。いっそ目をつむってしまえばよかったのかもしれない。何かを見ようとするから、何かを感じてしまうのだろうから。見ようと、しなければ、いいのかな。わからない。
桜の木の下には、変わらず姉がいた。何を、見ているんだろう。姉はきっと、私みたいな不安を感じることもなく、いろんなものを見つめられているんだろう。
何が起きたのかわからなかった。目に見えていても、頭の中がついていかなかった。
姉は木に倒れこんでいた。正確には、寄りかかるようにして。ようやく理解できたときには、今さっき見えた光景がスローモーションに思い起こされ、あまりに突然の出来事に今見えていることも信じられなかった。それでも、姉が木に寄り添うように体を預けていること、それも額を当てて後ろから見ていると祈っているようにも見えること、いまだにそうしていること、が見えていて、それは紛れもない事実だった。私はこの場から動くこともできずに、こうやって見守っているだけだった。姉が傘を持っていないことに気がついたのもしばらく経ってからで、桜の木の近くに転がっているのはすぐに見つかった。
すべてがゆるやかな時間だった。ゆるやかに、思えた。姉は木から体を起こすと、空を見上げた。私もつられて見上げてしまう。灰色の空から際限なく、束縛もなく雨が落ちてきている。ふしぎねぇ。姉は何を見ているんだろう。そこから、何が見えているんだろう。きっと、空は見えていない。見えているとしても、葉の裏の空。ここからたった何歩かの違いが、それほど、違うものを見せているのだろうか。そんなにも、違うのだろうか。わからない。
たまには濡れるのもいいわねぇ、何事もなかったかのように傘を拾うと、私のほうを見た。いつもと変わらない、すがすがしい笑みを浮かべていた。私は今、どんな表情を返しているだろう。何も考えられなかった。
「そろそろ帰りましょうか」
私はいまだに、ただ見ているだけなんだろうか。その微笑みを見ながら、私が歩き出すのを待っていてくれている、姉の。振り返ってあの桜の木をもう一度見る。ただ、黙ってついて行くことしかできなかった。