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社会人一年目に、北上した私へ。

もう、あれから25年が経っている。

あのときの自分へ言いたいことが出来たから、今日は25年前の自分に会いに行こうと思う。

 



1994年。
就職活動を経て、あるIT企業へ入社が決まった。

入社直前の3月だったと思う。昼間、家にいると、突然その会社の部長と係長から「家に伺いたい」と電話がきた。入社したら東京勤務になると伝えられていたので、私は北海道から関東へ引っ越して、初めて一人暮らしすることを思い浮かべていたところだった。

「申し訳ありません。東京で、なさじさんを配属させる予定だった仕事が無くなってしまいました。入社を半年待っていただけないでしょうか」

母と私に向かって、そう言った。

母は、「なさじがそれでいいなら」と言い、私は「わかりました」と部長と係長に答えた。

突然失注してしまった仕事に配属予定だった5名の新人の家を回っていると言う。「ふざけるな」と罵声を浴びせられ、入社を辞退した家もあったと言う。

私は、「半年空くのだな」としか思わなかった。「なんでも受け入れる性格」はこの頃には既にあったようだ。そして、それは母譲りだったのだな、と今振り返って確信する。

4月入社が、10月入社に延びた。

そして、5月。

私は北海道の離島にいた。

カモメの声が騒がしい。

小さな旅館に住み込みで働いていた。フェリーの到着時刻に合わせて旅館の名前が入ったワゴン車で港に向かい、海の向こうからフェリーが近づいてくると私は、旅館の名前が入った旗をフェリーに向けて高く掲げて見せた。フェリーが着き、乗客が降りてくる。この旗を目掛けて歩いてきて下さった方々を、旅館に連れていく。

旅館では、お客様の送迎に加え、部屋掃除、風呂掃除、買い出し、布団敷き、配膳など、なんでもした。正直きついことも多かった。女将さんの罵声に、突然いなくなるバイトが何人もいた。休みらしい休みはほとんど無かった。札幌まで帰るとしても一日掛かり。携帯電話も無く、よくフェリーターミナルの公衆電話から、母に弱音を吐いた。



そこで私は5ヶ月を過ごし、やり抜いて札幌へ戻った。



1994年のなさじへ。

世間知らずな若者が、島でビッシリ働き抜いて、大いに鍛え抜かれたね。今、思えばあの経験があったからこそ、その後のIT企業での過酷な勤務にも耐えられたんだよ。「表情もずいぶんと柔らかくなった」と、再会した係長にも言われていたね。

いい経験だったと思うよ。よく決断し、行動したね。あ、お母さんも応援してくれていたね。

実は、お母さんが先月亡くなったんだ。最期まで不平不満を言わず、最期まで「大丈夫だよ」が口癖だったよ。

あ、係長がお通夜にも告別式にも参列してくれてたよ。今は専務取締役になっている。

君が立ち向かってくれたおかげで、今も楽しく生きているよ。ありがとう。その調子で大丈夫だよ。







#社会人1年目の私へ

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