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自己決定について書き出す

自分の選択に自信が持てる人はどれだけいるでしょうか。
自分で選択できない人は弱いでしょうか。それは悪いことでしょうか。
 
以前、同僚と一緒に支援しているケースでそのようなことがありました。
今の仕事を辞めるか、辞めないか。その選択に迷う方は少なくありません。
 
昼、本人からメールが入っていました。
これまでも精神的な不調の波がみられた方ではありましたが、その日は仕事を早退したとのことで、「もう続けられない。辞めさせてください」といった文言が書かれていました。
 
私が訪問から帰ってこのメールみたのと同時に、同僚が電話をしている。
話の内容からすると、どうやらこのメールの主と話しているようで。
 
言葉の端々から、相手は何度か「辞めたい」とか「この点が辛い」と話しているようでした。
対して同僚からの言葉の多くはその気持ちを受容するものと、「冷静になってから判断した方がいい」というものと、「決めるのはあなた」というものでした。
 
最終的に「家族と話して、必要であれば面談しましょう」というもので、その面談をおこなうことも相手に委ねた言い方で電話を終えていました。
 
自己決定を尊重する、とはよく言いますが、私はこの言葉は支援の本質であり、一方で危険な考え方だと感じています。
場合によって、支援者は責任を取らない位置から言葉をかけることに注力します。
自己決定の裏には自己責任が伴っています。
自己責任については当たり前のことなのでしょうが、この自己決定を尊重するという言葉が支援者の逃げ道として活用されることを私は好みません。
 
「決めてほしい」という相談者と、「決めるのはあなた」という支援者の押し問答は平行線で終了します。
「決めるのはあなた」に至る前に、まず相手の「決められなさ」に寄り添い、理解を示し、支援を提供することが必要ではないでしょうか。
 
そんなことをぼんやりと考えながらその電話を聞き、終了した同僚から報告が入る。
「決めてほしがっていた」という話し振りで、何というかやり取りに対する不安や葛藤は感じられない態度でした。
 
そこに相談者からのメール。
主旨としては「話しても無駄だった」と「自分で決めます」というもの。
そのメールに同僚が気付く。
同僚の反応は「なぜ」というようなものでしたでしょうか。それから「自分で決めてくれよ」という言葉。
 
決められないんだと思いますよ、と投げかける。
なぜ決められないんだと思います?とも投げかける。
同僚は沈黙して、自分が電話で伝えた内容を話し始める。うーん、そうではない。そこを弁解しても何も始まらない。先ほどあなたが書いた記録の内容を繰り返しても何も深まらない。
 
同僚としてはこれまでもあった精神的な波の中から出た言葉であり、また復調する可能性を思って「冷静になってから決めよう」と言ったようでした。
「本音がわからないので」とも。
以前も同じ相談者に同じことを言っていたので、私としては「隠れた本音はわからないから、出てくる言葉を本音として対応しよう」と伝えていました。
出てきた「退職」を真として対応していき、隠れた本音があればそこで「待ってくれ」となる。
出てきた「退職」を偽として対応すれば、「なぜ信じてくれない」が生じるからです。
まあ今回「退職」なので対応に戸惑うことはわかりますが・・・。
 
結果、熱くなっている本人へすぐに反応することは控え、翌日にメールをすることに。
内容として、電話でそこまで思いつめていたとは思わず、メールで改めて切迫していることが伝わってきたと率直に伝えることに(私の案で同僚も納得していたがこれでよかったろうか)。
加えて退職への気持ちは了解したことを記載。念のため最速で面談を調整することを伝えつつ、それまで待てるかを確認する・・・といったメールを作成しました。
 
最終的にはご家族から連絡があり、家族としても本人の状況を鑑みて退職を支持するという結論に。
本人との関係性は修復でき、退職の手伝いをおこなった・・・という顛末でした。
 
ケース対応の良し悪しは一度棚に上げますが、やはり「自己決定」というものの捉え方は大切だと感じたケースでした。
同僚を責めるつもりはない・・・ものの、正直改めて考えてほしいとも感じたので、上記のような言葉かけをしてしまいました。
支援観の押し付けのようになっただろうか。
 
ですが、決められないことって自分自身もありますし、誰かに決めてもらいたいことだってあります。
せめて決められない、迷っていることに「迷うよね」の一言がまずほしいことだってある。
第一、同僚の言葉自体が「支援者として方針を決めていない」と感じてしまいまして。それは矛盾で、誠実ではないと感じていたところです。
 
支援者は支援を決めるんです。それを相手に投げて、選択してもらうんです。
また、決められないことに寄り添い、決められるように支援するんです。
それでも決められない人がいることもいて、教科書にはない「レールに乗せる」といったことも、場合によってはするんです。
一部で責任を持つんです。本人、家族、他の支援者、企業・・・そんな「みんなで決めた」の中には必ず「支援者」が入っているのが自然ではないでしょうか。
じゃないと、ただの傍観者です。
 
感じたままに書き出してしまいました。
ふと思い出して、悶々としましたので。
目に留めていただきありがとうございました。

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