4/365
本当の自分で生きていなかったから。
私には親友と呼べる友達はいる。
しかし結婚出産を経て、
置かれた環境や立場も相まって、
今まめに連絡している友達は全くいない。
(このご時世も理由でもあるし、単に友達が忙しい時期だということもあると思うが。)
決定的な確執が起きたわけでも、
嫌いになったわけでもない。
強いていうならば、
波長が今は合っていないだけだと思っている。
腹を割って自分の本音を話してきたつもりだ。
だがどうだろう?
100%の気兼ねなく、
100%の自分で接して来たであろうか。
居心地がいいにも関わらずどこか気を遣う自分が常にいたように思う。
原因はそこにあると私は思う。
本当の自分でいなかったから、
昨今になり常に繋がっている友達がいないのではなかろうか。
そう考えると情けない。
自分はなぜ100%の自分で振る舞えないのか。
いや、振る舞って来たつもりだ。
ただいつも空気や顔色ばかり伺い過ぎて来たようだ。
見たくなくても見えてしまい、
読みたくなくても読んでしまう。
鈍感だったらどんなに良かったか。
もっと単純に人付き合いも楽しめただろうなと、
恨めしく思う。
そしたら歩んできた道ももっと違ったものとなっていただろう。
こうして過去を後悔することはあるが、
後悔するということは、
やっと自分がその位置に来れた印であるようにも思う。
気づけたということは自分が成長して来た証で、
ここから先は違う選択肢を選んでいけるということ。
本当はとっくに選択肢は既にとなりにあったんだけど気づかなかっただけ。
私の場合は、
今、
気づけた。
これが私のタイミングだったのでしょう。
そしてほんの少し過去に惜しい気持ちを抱きながらも、
この道があったから、
今の自分にたどり着けたのなら、
大分遅かったかもしれないが、過去の自分もよくやってきたのではないかと思える。
そう考えられたら、
やっと自分を肯定できた気がした。
今までに何一つ意味のなかったことなどなく、
今に辿り着くための全部必要なことだったのだ。
ということは、ここからがはじまりで。
真価が問われるのかと思うと身が引き締まる。