比較してほめるの正体
嫌われる比較ほめ
先日揖保乃糸とイオンのトップバリュのそうめんを比較して揖保乃糸うめえええええ!と言ってるツイートがバズり、それに「何かをほめるとき、比較して何かを落とすやり方って超最低!!」と、繋がるツイートもバズっていた。
変容し続けている日本社会。きれいな外見、きれいな心、きれいな行い、きれいな思考が正義として確立してゆく過渡期の正しい反応であると思う。
ざっとネットをさぐってみたが、このような「何かを上げるとき、何かをあ比較してさげる」ことが嫌われるようになってきたのは2010年くらいからであった。
このような「推し上げ、他下げ」を嫌う人は多く、2022年ともなった今ではもはや間違いなくこれは常識の一環であると言えるだろう。だが、その常識を持っていない人がいるのも確かである。それは何だ?
簡単だ、世代の差だ。
求められた形へと変容していく社会
この「推し上げ、他下げ」は、かつて別に何でもないことであった。もちろんこれを嫌う人、言われて困る人はそれなりにいただろう。ただ、SNSの無い時代、多くはあったかもしれないが、「嫌だな、気分悪いな」の、か細い声は響かなかった。
よい例を二つ上げよう。
まずは親子関係だ。
戦前には子供には人権など無かった。子供は親の所有物で、親の胸先三寸で売ったり犯したり殺したりとなんでもできた。子供の意思など無いも同然だった。そしてそれは別に当たり前の事だった。
続いて嫁姑関係。
かつては息子夫婦に干渉し、その子供を産む時期までコントロールし、親が今は孫はいらない、順番的におかしいと感じれば、中絶ですら強要していた時代があった。さらに兄が無くなれば、その嫁は弟と結婚させられた。
いやいや本当にそれくらいの話がごろんごろんあったのよ?
そんなことが当たり前な時代に、「何かをほめるとき、他の何か比較して…」なんて細やかな気遣いなどそもそも存在しなかったのだ。それを令和の時代に生きる若者たちは知らない。知らなくて当然だ。生まれていなかったのだから。
学校で教えることが刻々と変わっていく。それは政府や学校が決めるのではない。多くの国民が求めることに対応して変わってきたのだ。今の世の中に求められているのは美しさである。他人を貶めない、美しくきれいな考え方を皆が求めている。みんながつらい思いをしたくないし、他人から攻撃されたくないし、傷つきたくない。ほんの少しでも。ほんのわずかなことでも。
尖る繊細。それを社会にどこまで求める?
自分が知っている「ええ?そんなことで苦しいの?」と思った代表を上げておく。
あるミュージシャンが、今週のオリコンで2位であった。
そのミュージシャン☆☆は「やった!来週は1位になれーーーっ!」とツイートした。すると今週1位のミュージシャン、〇〇のファンの子が「それは〇〇が1位から落ちろってことですよね。ファンとしてとても傷つきました。発言を削除して謝罪してください」とリプライを返した。☆☆は「〇〇さんとそのファンを貶める意図はありませんでした。自分は悪い発言をしたと思いません。来週は1位を獲得したいです」と返していた。
これは今から10年くらい前の話であるから、炎上もしなかったが、令和になった今ではどうだろう。☆☆は有名な方なので、今だと炎上案件かもしれないと思う。
そして私も「ええ?そんなことで傷つくの?」と驚いたのを覚えている。
そう、私のような古い人間は別に「比較ほめ」をなんとも思わないのだ。ふーん、そうなんだ、くらいにしか思わない。
もちろん自分が正しい、今の人たちが間違っていると書きたいのではない。
自分が書きたいのは今の人たちが嫌う「比較ほめ」をする人たちの心理を裏読みしても何もないよ、と言うことである。
これまたネットを見ると、この「比較ほめをする人の心理!」などという記事がそれなりにヒットする。そしてそこには比較ほめをする人はマウンティングがしたい、悪口がいいたい、育ちが悪い、性格が悪い、他人を思いやれない最低のクソ人間…、みたいな事がフルコースで書かれている。
まあ当然だろう。自分の嫌な事を嬉々として行う憎き狂人にしか見えていないのだから、その心理にはそれはそれはどす黒く汚れた醜いものがあるのだろうと考えてしまうのも無理はない。
しかし、「比較ほめ」が嫌いで許せないのは全くいいのだが、この心理を探った記事に対しては真っ向から反論したい。それ、間違ってますよと。
「比較ほめをする人は、正直何も考えていない」が正解だ。
別にマウンティングをしたいわけでも、悪口を言いたいわけでも、うさを晴らしたいわけでも、性格が悪いわけでも育ちが悪いわけでも狂人でもない。
前述のミュージシャンは自分のひとつ年上の方である。似たような時代に生まれ、生きてきた方で、大変な努力家で人格者で、素晴らしい才能を持ち、デビューしてからずっと前線で活躍しておられる本当に素晴らしい方なのだ。
そんな方でも、ふいに若い誰かを傷つけてしまう。
まあこの件に関してはリプライを送って来た人が少々尖りすぎなのではないと正直に思うし、フェミニストの方々による「傷ついたから謝って」と共通する毒棘があるとも思う。その辺の線引きは曖昧であるし、今のところだれにも引けていないように思うが。
それを知って、どう生きるか?
話を戻そう。
ただ、知らないだけなのだ。
新しい概念を、変容してしまった物事の意味を。
今まで息をするように使っていたフレーズが、今や多くの人を憤らせ、傷つけ、怒らせるものへと変容してしまった事に気がついていないだけなのだ。
私もそうだった。
だから昨今のSNSの流れから学んだ。
「なるほど、自分は全く気にもならないことだったが、今後そのような表現はやめた方が自分と周囲の人のためだ」と。
何もこれは比較ほめに限ったことではない。
嫁姑の関係が変容したことも、子育てのやり方が変容したことも、夫婦の在り方が変容したことも、若者が飲み会を断るようになったことも、あらゆることが、全部、全部、そうなのだ。
私はもう結構ないい年になるが、この「比較ほめ」の一件でようやく、自分が若いころ、親やその周囲の人たちが若者たちに対して「?」となって、全く理解がされなかった事に合点がいった。
私が若いころ、親世代に対して耐え難い苦痛を感じていたように、今の若い世代の人たちは、私たちの世代に耐え難い苦痛を感じている。
そしてそれは年が上の人たちには新しい概念であり、気づきと理解に時間がかかる。
自分の変容を望まず、新しい概念は間違っているとかたくなになったものから嫌われ、排除されていく。
なるほど、なるほど。
愛情の形、表し方さえ変わっていくことを認めないから、熟年離婚が発生し、妻は夫を捨て、年寄りは若者に蔑まれる。
若いもんに迎合などできるか!と覇気を吐いて生きてゆくのも別にいいだろう。しかし「受け入れない者たち」は「?」の疑問に包まれたまま(あるいはそれすら気づくことなく)生を終えるのだ。
なるほど。なるほど。
だからもし、あなたの周りで、あなたの大事な人が比較ほめをしてあなたを傷つけるようなことがあったら…。その新しい概念を優しく教えてあげてはもらえないだろうか。
そのロートルは、ただ知らないだけなのだ。
そしてあのロートルが、自身から見てあなたを大切な人だと思ってくれているのなら…あなたを傷つける発言をやめてくれる…かもしれない。
しかし書いていて思うのはフェミニストと表現の自由戦士の事である。今日描いた比較ほめも、フェミと戦士の戦いも、なんだか根源をたどっていけば同じな気がする。
各人が心地よいと感じる世界を求めてさまよい戦っている。それが人間の社会なのかもしれない。
道を譲るか、戦うか。
いやあ、揖保乃糸のツイートと、その一連のリプライのおかげで老いてなお勉強ができましたよ。
私は今現在も、別に比較ほめに対して何も感じない。多くの人が自分とは縁もゆかりもないそうめんの事であんなに憤るのは理解できない。
だが、みんなが怒っているのはわかる。そして、そうめんと縁もゆかりもないとか、そういう問題ではない事もわかる。
だから今後はそのような発言をしないように生きていく。比較ほめが、自分の中でそこまで大事なものではない。だから別にいい。
ただそれだけだ。