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ケアマネの親が認知症に

母が亡くなり、父がひとりになった。
父は自立したひとだったが、料理だけは母に依存していたこともあり、とたんに食事に困窮した。

90歳近くのひとに「料理は簡単、大丈夫よ」と話ししたところですぐに料理ができるわけもなく、これからできるとも思えず…。

父の住む実家まで、距離はさほどないが、そこまではいつだって大渋滞。
片道1時間30分ほどかかって、週に2回はつくった煮物などを届けていた。
わたしも仕事があるため、仕事帰りにまず自分の家に寄り、そこから実家へ。帰りは夜遅くなることは常だった。

かかりつけの病院からの電話で「お父さん、結核の疑いがあります」と連絡があった。
かかりつけ病院では検査ができないので、とりあえず大きな病院へ紹介状を出す、と。

実家から20キロほど離れた他市の市民病院。
そこに行くには、わたしも仕事の休みを取らなければならない。

父に電話で、結核かもしれないこと、迎えに行く時間などを説明し、準備して待つよう指示する。
指示通り、準備をして待っていたが、不安そうに「なんで市民病院に行くのか?」と聞く。
ちゃんと電話で説明し、父は、わかった、と返事したのに……。
また初めから、結核かもしれないから検査に行くんだよ、と話すと父は深刻な顔で黙り込んだ。

市民病院では、駐車場にある隔離診察室に通され、問診を受ける。
いきなり世間から外された気持ちになる。
父が結核なら、わたしだって罹患しているかもしれない…。

その後、数日に渡って喀痰検査などを受けた。
父は、不安そうに自分が結核だったらどうなるのか?とわたしに聞く。
「数ヶ月入院だね。抗生剤をのんで」と、仕事で得た知識から話をする。
父は、困ったな…とつぶやいた。

検査の結果は、結核ではなく、他の人には感染しない肺の病気(非結核性抗酸菌)だった。
わたしは、ほっと胸を撫で下ろした。
父は一時的には安心した顔をしていたが、その病気も治療が必要とのこと。毎月通院をすることになった。
そのたびに仕事を休まなくてはならない。
妹と手分けして、都合を付け合って通院を介助する。

診察時のドクターが説明をするのを聞き取っておかないと、父は全く理解できていないこと。
会計だの処方箋だの、受付場所が変わると父は混乱してしまうこと。
以前に比べ、驚くほど理解力、判断力が低下していた。

しばらくして、元々高かった血糖値が上がり、意識障害が出現し救急搬送され、そのまま血糖コントロールのため、入院となった。
前から服薬していた糖尿病薬をずっと飲み忘れていたらしい。
実家で調べると、多量の薬が出てきた。

父は慣れない入院生活で、少しずつ認知力が低下していった。
折しもコロナが流行したことで、わたしたちとは面会はほとんどできず、単調な治療と、狭いベッドのみが居場所で活動量も減り、刺激のない毎日を繰り返すだけ。
インシュリン注射が必要になったが、看護師に手技を何度も指導されても、覚えられなくなっていた。

ドクターからわたしに電話があり、退院できるが、インシュリンを補佐しないとひとりでは注射ができない、とのこと。

毎日、一人暮らしの父のところへ行き、インシュリンを注射する。
妹と手分けしたとしても、簡単な話ではない。
ドクターと相談し、インシュリンを日に1回だけ注射することとした。
妹とも相談した。

仕事をしてから実家に向かうので、18時~19時の間にインシュリンを打つ。
それから毎日、日にちを妹と振り分けた。
おかずなどの食べ物も、その都度持っていった。

毎夕、父に注射の手技を教えたが、やはり覚えられない。
少しでも覚えてくれたら、こちらも助かるのだけど…。
帰り道、信号待ちをしているとフッと眠ってしまうことがよくあった。
無意識のうちに帰宅していることもあった。

父は入院中に病院が介護保険申請をしており、要支援1と認定された。
介護保険では一番軽い認定だ。

包括支援センターからケアマネジャーを紹介してもらう。
Kケアマネさんは、とても親身になってくださるいい方でホッとした。
わたし自身もケアマネだ、と明かした。
Kケアマネさんは「それはやりにくいですね!」と冗談を言って笑った。
わたしも仕事でこのような場面があり、利用者さんがわたしというケアマネがどんな人物なのかとか、介護保険の利用についてまだ理解できないうちはとても不安なのだろうな、と改めて考えた。

父は歩行もおぼつかなくなってきたので、歩行器を借りることにした。
家の外で歩行練習をすることにした。
しかし、歩行器のストッパーやたたみ方が覚えられない。
歩行器を利用すること自体、難しくなってしまった。

ひとりの入浴も危なくなってきた。
糖尿病や下肢の機能維持のためにも運動もしたい。
ディかデイケアの帰り時間にインシュリンも打って帰してもらうと少しでも助かる、と考え、デイケアを利用することに。
Kケアマネさんがいろいろなデイケアを提案してくださった。条件に合う事業所を利用することにした。

しかし、父が「行きたくない。一日中、座っているだけなら家にいたい」と言い出した。
父はあまりひとと交流するほうではなく、気を遣って過ごすくらいなら、一人の方が楽と思ったらしい。
その後は駄々っ子のように、行きたくないと言い、とうとうデイケアにも行かなくなった。

ケアマネのわたしの利用者の中にもこういう方が時々みえる。特に男性に多い。
困り果てた家族に、「何度か行けば慣れますから」とか何とか言って、なんとか行かせてしまう。
これは本人にはむごいことをしているのか…?

父の混乱はますます進んでいくようだった。
ある日「お母さん(妻)の名前がわからなくなった」と言い出した。

わたしは凍りついた。

え?何を言っているの?
「わたしの名前はわかる?」と試しに聞くと
「あ…あれ?…名前?」と怯えるような目つきをして、頭を抱えだした。
これにはさすがにわたしもショックを受けた。
どうしても思い出してほしかった。
でも、父はオロオロするばかり…
ナルミだよ!と答えを教えても、そうだったか?という空虚な表情の父。
父もわたしも愕然とした瞬間だった。

毎日、妹と交代とはいえ、通うのに時間がかかり、混乱した父と向き合い、疲れもピークとなり、これでは潰れる、とKケアマネさんに再び相談。
次は訪問看護師を利用し、健康管理とインシュリンを手伝ってもらうことに。

度々、Kケアマネさんに計画書を書き換えてもらうことに申し訳なく思った。
計画書は、アセスメントからその利用者の目標まで、共に内容を話し合って作成し、目標を目指す。
ケアマネにとっては手間のかかる作業だ、ということがわかっている。
Kケアマネさんには仕事とはいえ、いちいち計画が頓挫する面倒な利用者に当たってしまったことを申し訳なく思う。
わたしも、仕事でこういうことがたびたびある。
顔は笑って「今度はうまくいくといいですね!」と家族を励ましたりしているのだ。

訪問看護師の利用と在宅診療も始まった。
医療管理を訪問でしていただくことで、通院がなくなり負担が減った。
訪問看護師は、父が転んで手の甲の皮がめくれた時も手当をし、報告をしてくれた。
離れている間の不安も少し軽減。
緊急時も対応してくれる。

介護保険は、介護度によって利用できる限度額が決められている。
要支援1は利用できるサービスが限度額内では少ない。
父は限度額内ならば、実際にかかった料金の1割を負担する。
その限度額を超過すると超えた分は実費(10割)となる。

父の日頃の様子から、区分変更(介護度の見直し。要支援からは新規申請をする)をすることにした。
通いで介護をするというのは、時間も制約される。
では、父をわたしや妹の家に引取ればいいでないか、と考えるだろうが、何十年と慣れ親しんで暮らした家から、環境の違うところに移るとこころの混乱が起きやすい。
入院をした高齢者に、せん妄という症状が起きるのはこのことからだ。
ましてや、わりと神経質な父にはもっと難しいと思われた。

できれば、もう少し訪問看護師の訪問を増やしたい。

認定調査に、市の女性職員がやってきた。
もちろん厳正に調査を進めていく。
わたしは家族、として日頃の父の様子を質問に則して答えていく。

急に調査員が「あなた、福祉関係?」と聞く。
ええ、ケアマネです、と答えると、顔つきと態度が変わった。
ケアマネを指導する市の介護課の職員に成り代わった。(ケアマネジャー業務は市が管理指導している)

妹と交代で、通いで父のもとに来なければならず困っている、今の父は認知症で、インシュリンも打てず、ひとりでは生活が成り立たず、今の介護度ではないと思う、と話した。
調査員は仏頂面で「(介護認定は)審査会が決めるので」と帰っていった。

追い詰められた上、突き飛ばされた感覚があった。
わたしも妹も心身ともに疲労困憊だった。

結局、父の介護度は変わらなかった。
妹とまた同じように父の元へ通うしかなかった。

その後、父の体調が徐々に悪化。

その日は、毎朝かける安否確認の電話(家電、携帯)に父は出なかった。
不安いっぱいで訪問看護に連絡。様子を見に行ってもらった。

「意識消失しています!ブドウ糖も受け付けません」との返事。

その前日、わたしが訪問し「お父さん、帰るわね。ちゃんと夕ご飯を食べるんだよ」と横になっている父に声をかけた。
「ありがとう」とゆっくり、弱々しく返事をした父。
その言葉が最期になった。

父は、起き上がれなかったのか、夕食は食べられず低血糖に陥り、昏睡状態となり、2日後、そのまま旅立った。


これがいつまで続くのか…と暗澹たる気持ちになった介護の日々。介護のプロとしての知識や技術は持っている、と思っていたが、自分の親と向き合うことになり、介護の現実は、想像以上に生易しいものではなく、厳しく、悲しく、逃げ場がないものだ。

介護の現実の前で立ちつくしたわたし。

持っているものを何に役立てられただろう?
これから何に役立てられるだろう?

介護の仕事。
そんな同じ立場の利用者、家族に少しでも寄り添えるか。

今も、自問自答を繰り返している。

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