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そろそろバズから「降りる」のもいいんじゃない?

バズフィードというその名もずばりみたいな会社で仕事をして、外部媒体での寄稿もおそらく拡散する記事を求められていて、過去に何度も「バズるコンテンツの作り方」みたいな講演をしてきた。

そんな僕が言うのもなんですが、「そろそろもういいんじゃない?」とも思っている。

もちろん「バズ」という概念そのものを否定するわけでは、まったくない。1つの手法としてはいまも変わらず有効だし、上手く使えば低コストでいろんな成果を上げられる。なによりバズは気持ちいい。

だから決して良い、悪いの話ではないし、誰のことも否定したくない。

ただここで言いたいのは、世の中がちょっとそっちに偏りつつあって、それしか価値がないと思い始めている人がネットで何か発信するも、自身のことを「バズらないから…」とか「私なんてSNSのフォロワーも少ないから…」なんて思うようになっていたら、ちょっと残念に思う。

たしかに人から人におすすめしたくなるコンテンツは素晴らしい。「おすすめする」というのはとてもポジティブなアクションだ。みんなの話題になるのは基本的にいいことだ(この記事では炎上には触れない)。

でも決してそれだけじゃない。

「いいね」されなくても、「リツイート」されなくても、あなたの作ったものの価値はあなたが褒めてあげなよ、と言いたい。

バズることに必要な要素を挙げると、「役に立つ」「面白い」「語りたくなる」など、いろいろある。まとまった情報をリストに整理して、ポンと出すと、人はそれをシェアしてくれる。ブックマーク代わりにいいねしてくれる。その情報に価値があるから。

強烈に面白くてインパクトがあるものも良い。人が語りたくなるコンテンツを作るには、そこを逆算する。

いろんなやり方がある。ただ、常にそこを目指して続けていると疲れると思う。

毎回毎回人の役に立ちたいか。ずっと面白い人でいたいか。

テレビの情報バラエティでは毎日のように「ネットでバズったコンテンツ」が紹介されている。Twitterで数千リツイートでもすればテレビ局の制作スタッフが「ツイートに載っている写真をください」とリプライがつく。

バズは毎日毎日1000個くらい生まれ、毎日毎日1000個くらい忘れられていく。

「先週バズったものはなに?」

これに答えられる人はほとんどいない。

その1000個のうちの1つを作り続けるのはそろそろいいんじゃない?

もっとゆっくりとした時間が流れる場所もある。

今日はそんな話をする。

ポッドキャストをやっててよかったこと

2015年にポッドキャストを始めた。

まさにバズの時代真っ只中だった。僕も毎日、自分の目の解像度を上げ、「このネタをこう料理すればまあ○万シェアはいくだろう」なんて考えながら記事を書いてきた。

その傍らコツコツと配信するポッドキャストは誰もシェアしない。

ただしゃべって、録音して、出し続けるのが楽しかった。たまに有益な話をしようが、あるいはしまいが、聴いてくれる人の数はだいたい一緒だ。

だんだん気づくようになる。声には本人性が宿ることを。

そうか――。いまここで話していることは、自分自身と確実に結びついていて、誰か別の人が一言一句同じことを話したとしても、手触りはまったくの別物になるんだと。

つまり情報としての価値ではなく、作った人とそのコンテンツが一体となって価値になるところに、救いがある。

自分のペースでつらつらと語る場所があってもいいんじゃないか。

そう思えたのはポッドキャストをやってきて良かったといえる点だ。

もちろん仕事では、寄稿では、テキスト記事ではそこそこがんばるんだけど、そうじゃない場所があるというのはひとつの癒やしだ。

というか最終的に僕らを幸せにするのは“そういう何か”と、筋トレくらいだと思う。

っていうことを前にもこの #616 で話したんだけど、

要はインターネットにマイペースでいられる場所をつくるなら、ポッドキャストとかいいんだぜっていう話でした。

※なお、このnoteは「ポッドキャスト配信について語るアドベントカレンダー」3日目の記事です。

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