noteを書く動機
今日、以下のツイートを読んでハッとした。
私もそうだ!と思ったのだ。
ちなみにツイート主の沼田牧師は東京の王子北教会で牧師を務めていらっしゃる。日々さまざまな人たちが沼田牧師の人柄を慕って悩み相談などをもちかけて、沼田牧師はそれらの人たちの声を傾聴されている。
御自身が精神病院に入院したときの出来事を赤裸々に語る著書「牧師、閉鎖病棟に入る」は沼田牧師の実直な人柄がにじみ出ている。
さて、冒頭のツイートに戻る。
私は最近になってnoteを始めたのだが、noteで記事を書くのを楽しいと感じている。記事を書いた後に人から反応をいただけるのもとても嬉しいが、そもそも自分の頭の中にあるものを人が読める文章という形に落とし込む作業自体が楽しいと感じている。
その楽しさが何によるものなのか、深く考えたことが無かったが、沼田牧師のツイートを読んでハッとした。
私は自分の中にある不全感、不満感、劣等感といったものを「書く」という行為で発散させていることに気づいたのだ。
私は自分の中にうごめく上記のようなネガティブな感情(以下、それを総称して「苦しみ」と呼ぼう)を何とかしたいと思い宗教、仏教に手を出したという経緯もある。
では、仏教によって私の苦しみが解消されたら、私はnoteを書かなくなるのだろうか?おそらく答えは「Yes」だ。「文章を書きたい」という欲求自体が消滅してしまうと思う。
こういうことを考えたときに思い当たった逸話があった。
これは本を読んで知った逸話だが、シュールリアリズムな鬼気迫る絵を描いていた画家がいた。その画家が50代に入ってから精神的な悩みを抱え、その解決のためにある禅僧に参禅修行を願い出た。その禅僧からは「禅をやりたいならやっていいけど、やったら絵を描けなくなるよ」と言われたが「それでも良いです」と禅を修習した。そして「見性(一種の悟り体験)」を認められるところまで修行を進めたが、そうすると実際に絵が描けなくなったそうだ。
その画家はその後試行錯誤して、画風を大きく変え、精神世界の色彩を直感的にキャンバスに表現するような抽象画を描くことになった。禅を修行し、精神的な悩みを解決してしまうことで、以前のように幻想的な世界を鬼気迫る衝動で描くことができなくなった例だ。
文章を書くことに引き寄せてもう一つ仮定の例を挙げるとすると、太宰治が仏教などの修行をして苦悩や葛藤が解消されていたら、「人間失格」を著していただろうか?ということだ。私は書いていなかったと思う。
彼が持っていた苦悩や葛藤が完全に解消されていたなら、物書きなどせずに慎ましく生活していたように思う。これは私の妄想だが。
ただ、私は文章を書くことで、自分が持っている苦しみを発散させること自体が悪いとは思っていない。苦しみを発散させる方法を知らず、鬱滞させる方が精神衛生上まずいし、「文章を書きたい欲」が自分の中にどの程度あるかで、自分の中にどれほどの苦しみが蓄積されているかを知るバロメーターにもなろう。
今回の気づきで、私の「書きたい衝動」が綺麗な心の発露ではなく、むしろ醜く目を背けたい心の発露であることを知れた。
自分の知らない自分を知れたことそのものも喜びだし、それにその目を背けたい心が「書きたい衝動」の起点になっていることを知れたこと自体も嬉しい。このままその心に目を背け続けて文章を書いていたら、別の抑圧が生まれていただろう。
今後も、自分の中のネガティブな心と付き合いながらnoteを続けていきたいと思う。
本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
最後まで読んでくださりありがとうございました!