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溜め池や山の擬神化あるいは擬人化
昨日は環境改善をしているグループのミーティングがありました。次回講座を行う予定の現場の下見(見立て)を行いました。
次回行う講座は溜め池の整備を予定しているので、溜め池の様子、溜め池周辺の状態、川から溜め池に入る水路の確認を行いました。
この溜め池を整備する計画は当グループのリーダーの発案でした。
私たちの住む広島県では近年たびたび豪雨災害が起き、特に2018年の豪雨災害では溜め池の決壊が被害を大きくした背景があります。そのため、県では県内の溜め池の多くを廃止する決定を行っています。
溜め池は農業用水を確保するものであると同時に、適切に管理されれば周囲の空気・水の循環に大きな良い影響があります。それをただ埋め潰してしまうだけでは周囲の環境はより悪化し、豪雨が発生した時に土砂災害をより誘発してしまいます。
今回講座をする予定の溜め池のある地域はリーダーが市民農園を運営している地域でもあるので、地域の方ともコミュニケーションを取り、溜め池の周辺環境への重要な価値について参加者と地域の方に知ってもらおうという意図もあります。
リーダーの溜め池に対する熱意を聞いているうちに、どういう話の流れでそう思ったのか忘れましたが、「溜め池の神様を創ってしまえばいいじゃないか」という思いが生じました。
というのは、「今ないがしろにされている溜め池や山を神様として擬神化・擬人化すれば、安易に潰したり開発されたりせずに大事にされるのではないか」と思ったからでした。
そう思った理由としてはリーダーが古神道に傾倒しており、古事記の話や大祓や神様の話を聞くことがたびたびあったことがあります。その中で、昔の人が山や川と言ったものに神格を認め、敬いながらそれらと付き合ってきたことが語られていました。
また、私が高森草庵に居た頃、ふと草庵の畑から見える山々の風景を見て「あ、こんなに美しい光景なら自然と手を合わせたくなるな」と思った経験も理由の一つかもしれません。ふと見た山の雄大さに感じ入った時、そこに神格(人格)を見出したくなった昔の人の心境が少し分かった気がしたのでした。
昔の日本人は長く使用した道具に神が宿って付喪神になる、という発想や土地の川に龍神さまが宿るとか、無生物を擬神化・擬人化する文化があったように思います。
そう言えば、今も軍艦を擬人化させた「艦隊これくしょん」というゲームや刀剣を擬人化させた「刀剣乱舞」というゲームが流行っているそうで(詳しくは知らないですが)、日本人には今も無生物を擬人化させる精神文化みたいなのがあるかもしれないですね。御当地キャラにも一部そういう影響があるかもしれない。
そういうことを考えると、溜め池や山を擬神化するのは割と真面目にアリなのでは?と思いました。溜め池や自然を神様として擬神化すれば、それらに愛着が生まれ、安易な開発によって山を削ったり森を切り払ったりという発想が控えられ、それらを大事に活かすにはどうしたらよいか、という発想に転換しそうです。
もう一つ、こうした擬神化、擬人化の効果として考えているのは、若い人への訴求力です。
環境改善の活動は、私たちだけがやって、私たちが死んだら元に戻りました、というのでは意味がないので後に続く人を育てる必要があります。そのために、今活動している間に若い人を巻き込む必要があります。
上記の通り、無生物の擬人化はゲームなどでも取り上げられているように若い人にも親しみやすいと考えられます。若い人も巻き込むための方法の一つとして有効ではないかと思っています。
ただ、私はこういった名づけとか創作に関するセンスが皆無なので、擬人化の具体化については別の人に任せますが(オイ)、こういうアイデアは持っておいて、事ある毎に言っておくと良いかなと思って記事にいたしました。
本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
最後まで読んでくださりありがとうございました!