悪をなさずにいられる幸運
子どもの頃から犯罪を犯した人が捕まるニュースを見るたびに思っていたことがあった。「この人と私は何か違いがあるのだろうか」
小学生のころ、家族でテレビを見ている時に殺人を犯した人が逮捕されたニュースが流れた。それを見た母が、その犯人に対する嫌悪感を隠さず、どうしてこんなことをするのか信じられない、というようなことを言った。
私は「この人がどうしてこんなことをしたのか知らないけど、私もこの人と同じような境遇になると人を殺してしまうと思う」と発言した。それに対して母は非常に強い否定の言葉を返した。詳しく覚えていないが、「人を殺したい」と思うのと実際に人を殺す行為をすることには大きな違いがある、実際に人を殺すのは極悪人であんた(私)は違う、同じはずがない、みたいなことを言われた。
しかし私には、どうしてもそう思えなかった。母は人を殺す者と殺さない者には決定的な違いがあり、人を殺す者は悪逆非道の輩で殺さない者は善良な一般市民という認識を持っているようだったが、私にはその両者の違いはただその人が置かれた状況の違いによるとしか思えなかった。だから、私もその状況に置かれれば人を殺すだろう、と思った。
私は人を殺したことは無い。放火も強盗も強制性交等も犯したことは無い。しかし、私が凶悪犯罪を犯していないことが、私が善良であることを保証するものとは必ずしも私には思えない。
そう思う理由の一つには、私が瞑想によって自分の心を観察して、自分の中にある強烈な怒りや暴力性に気付いたこともあるだろう。この怒りや暴力性は、今まで誰かに向けて爆発したことはなかったが、何かのきっかけで爆発してもおかしくない、という感覚が私にある。例えるなら、けん銃に弾と火薬が装填されていて、今まで引き金を引く機会がなかったから弾が跳ぶことは無かったが、何かのきっかけで引き金を引くことが起きたら、当たり前のように弾が跳ぶだろう、と思っているような状態だ。
(完全に余談だが、仏教において悟りを開く、ということは拳銃から火薬と弾を取り除くことだと思っている。火薬と弾が無ければ、いくら引き金を引く事態になっても弾は発射されないので)
私は日本に生まれ育ち、幸運にも飢えや戦争を知らないで生きてこれた。
もし私が中央アジアの紛争地帯に生まれていたら、生きるために人殺しも盗みもしたかもしれない。あるいは、日本であっても今の時代でなく戦後の混乱期を生きていれば、生きるために悪行を重ねていたかもしれない。
私の中にはちゃんと火薬も弾も詰まっているけん銃がある。私はその引き金を引いたことは無かったし、これからも引き金を引かないように生きるつもりではある。
しかし、火薬と弾が詰まっている、という点においては、引き金を引いた人(犯罪を犯した人)と私に差はない。
今改めて考えると、私と母の意見が対立したのは以下のような視点の違いがあったからだろう。
殺人を犯した人に火薬と弾が詰まっているのと同じように、私にも火薬と弾が詰まっていることを自覚していたから、そこを見て子どもの頃の私は「殺人を犯した人と私に違いはない」と言った。
母は、火薬と弾の話ではなく、引き金を引くか引かないかには決定的な差があり、引き金を引いた人(殺人を犯した人)と引いていない人(私)は違うのだ、と言ったのだろう。
さて、母の言う通り、引き金を引く人と引かない人には決定的な差はあるのだろうか。私にはいまだに、そこには決定的な差はなく、ただ置かれた境遇の差があるのみのように思われる。要するに運だ。私が今まで引き金を引いたことがない、という事実が、これからも引き金を引くことは無いという保証にはならないように私には思われる。
私が今まで引き金を引かないですんだのは、私の人間性の善し悪しよりも、私の境遇に関する運・不運の問題であるように思えるのだが、実際のところどうなのだろう。
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