「青春」よりも「玄冬」が好き
「青春」という言葉があります。コトバンクで調べると
とあります。
青春は元は中国の言葉で、春夏秋冬の四季を陰陽五行説に当てはめ、春は陰陽五行の「木」に当たり、木は色で言えば青が該当するため、青と春を繋げて「青春」という言葉が生まれたそうです。
なお、陰陽五行は四季それぞれに割り当てがあり、青春以降は「朱夏(赤)」「白秋(白)」「玄冬(黒)」と続きます。
なお、中国においては「青春」は年若い年代という意味で使われることはあっても、上記の日本の用例のような「夢や希望に満ち活力のみなぎる」というポジティブな意味はなかったそうです。
日本では、「年若い」ことに価値を見出す傾向があります。「神童」をもてはやす事例は古来から日本はありましたし、現代でも若くてイケメンな「○○王子」や若くて可愛いアイドルが好かれるのは日本的な傾向かも知れません。「青春時代」を称揚したり、「青春ドラマ」を好んだりしますが、「玄冬時代」を好む傾向は多数派ではないようです。というか、「玄冬時代」という言葉自体が無いですが。
一方で、例えば道教などによる「神仙思想」に表れるような老成し、円熟した人物の比喩として「仙人」を尊ぶ文脈もあります。古代中国で不思議な力を人に与えるのは、老人の姿をした仙人である事例は多いです。
言葉に正確な用法ではないですが、青春時代と対比して「玄冬時代」を尊ぶ文化、と言えるかもしれません。日本より古代中国において見出せそうな文脈です。
実は、私は「青春」というものがあまり好きではありません。「青春」と聞くと私はすぐに「未熟、暴発、愚か」というようなイメージが湧いてしまいます。
どちらかというと「老成」「老熟」といった言葉に魅力を覚えます。本来の使い方ではないですが、「青春時代」よりも「玄冬時代」の方が好きだと言えるでしょう。
私は瞬間的、一時的に優れたものより、永続的に価値を発揮するものの方に惹かれる傾向があるようです。私が人の容姿についてあまり価値を置けないのも、それが原因かもしれません。どんなに美男美女でも、歳をとれば容色は衰えてしまうので、そういう一時的なものに私は価値を置けないのでしょう。
逆に、人格的成長はどんなに高齢になってもできると思っているので、人格的に優れていたり、尊敬できる人に私はより惹かれるのでしょう。容色よりも人格の方が、より本質的な人の価値だと思う心が私にはあります。
そうした価値観も私が「青春」をあまり好きになれない理由かもしれません。「若い」というのは活力に満ち、さまざまな可能性が選べるという利点はある反面、知識や経験が少なく、人格的な成長も未熟であることが多いです。
年を重ねた人は、若いころのようなエネルギーはもうありませんが、蓄えた経験と知識や、長年積み重ねてきた研鑽によって磨かれた人格が備わっています。「若い」人よりも、そうした「年老いた」人の方が私の目には魅力的に映るのです。
そうは言っても年老いた人の中で悪い意味で「若い」人はいます。知識や経験の積み重ねも乏しく、人格的成長もあまりできているように見えず、未熟なまま年を重ねたような人です。私が将来そのような「若い」老人にならないように、精進はたゆまず行わねばならないなと思います。
「青春」がもてはやされる昨今、天邪鬼な私は「歳を重ねるってのも良いもんだぜ」と言ってみたくなりました。
私もとっくに「青春」と呼ばれる時期は過ぎてしまったので、来たる「玄冬時代」に向けて、歳を重ねることの美しさを主張してみたいと思い、筆を執った次第です。
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