「間違い」に怯える癖
私は「間違い」ということに非常に怯えがあるな、と最近気づきました。
例えば、仕事において「間違い」を指摘されることがあります。
草刈り機を使う作業の場合、笹刈刃の目立ての具合、アサリの付け方、草を刈る高さ、草刈りをするときの足の運び、足の置き場所、草刈りの順番、動線などなど、たくさんの「間違い」を指摘されます。
それらは要するに、私の草刈りの作業スピードが遅いか、施工要件を満たしていないために改善を要求する形で指摘されます。そして私は、指摘されたら「間違えているのかぁ……」と落胆します。そして「間違い」を指摘されることに怯え、「間違わないように」動こうとします。
それは「こうしよう」という内発的、前向きな心持ではなく、「間違いを指摘されないようにしよう」という外からの視線に怯える後ろ向きな心持です。
自分のそうした思考傾向を振り返ると、私は前提として、「正解」というものが自分の外にあり、自分がそれに合わせなければ「間違い」になってしまう、という考えがあるな、と気づきました。そしてその考え方は「間違わない」ために常に他人の基準を気にしないといけなくなるため、とてもしんどいな、と気づきました。
また、こうした他人基準のものとは別に私が「間違い」だと判断するものもあるな、と思いました。
それは「人や自分を傷つける言動」です。
人とコミュニケーションを取っていて、相手を傷つけてしまったとき、あるいは自分を傷つける言動をとってしまったとき、私は「間違えた」という感覚を覚えます。相手もしくは自分に苦しみを与える行為を私は「間違い」と捉えているようです。
そしてやはり私はそうした「間違い」も犯したくないと思っており、私が人を傷つける言動をしたときは「間違えた」と思ってしまい非常に落胆して、場合によっては自分を責めてしまいます(そして自分を責めて苦しめたことにまた「間違えた」感を覚える)。
「間違い」におびえる私の傾向に関連する私の性質として、自信の無さがあるように思います。
仕事においても、私は仕事のスピードにおいては自信がなく、その点について指摘されると非常にダメージを負います。私が仕事のスピードに自信があり、かつ作業を早く終わらせた実績が多くあれば、仕事の速さについて指摘されたとしてもそれを「私の間違いを指摘された」と認識せずにいられるように思います。
ただ、「自信の無さ」が間違いにおびえる傾向の原因とまでは思っていません。自信の無さのさらに奥にも、何かそれらを成り立たせる要因があるように感じるのですが、ちょっと今はそこまで見えていません。
結論のようなものはありませんが、今回はひとまず間違いにおびえる自分の傾向について暫定的な理解を言語化してみました。
本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
最後まで読んでくださりありがとうございました!