もう一つの色眼鏡
先日の松葉舎での授業で塾長の江本さんから聞いた話で、深く考えこんでしまいました。
塾生から「なぜ環境改善をしたいのか」という質問を私が受け、それに答えたときに塾長の江本さんから次のような話がありました。
中国の古典にある話で、ある王が生贄の儀式を行おうとしたとき、生贄になる予定の牛が「モー」と鳴いた姿に憐れみを感じ、その牛を生贄にするのを辞め、牛を救った。そして代わりに羊を生贄にしたという。牛には憐れみを感じた王は、代わりに生贄になる羊には憐れみを感じなかったのだ。牛にとっては命を救われた行いだが、牛の不幸は羊に回ってしまった。
環境破壊、環境改善と言っても様々な位相がある。
地球史規模で考えると、最も早い時期に最も甚大な環境破壊をもたらしたのは植物性プランクトンだ。当時の酸素がなかった地球において、植物性プランクトンは生命活動の廃棄物として酸素を大量に産み出した。当時の生命にとって酸素は毒だったため、多くの生き物が絶滅した。しかし、毒である酸素を取り込んで活動できる種が生まれ、それが植物や動物の祖になり、今の地球環境が出来上がった。
植物性プランクトンは確かに環境破壊をもたらしたが、それが進化を促す働きもあった。捉え方によって「環境破壊」にも「環境改善」にも見える。
大地の再生が行っている「環境改善活動」は空気と水の通りを良くする環境を作る。そうすることで土中にも空気が行き渡り、土中の嫌気性バクテリアが減少して好気性バクテリアが増え、土が腐敗状態から発酵状態に変わり、植生も変わってくるという。
では、「環境改善」をすることで消えていった嫌気性バクテリアは?植生が変わることで枯れていった竹藪などは?
それらは「牛を憐れんで羊を殺す」行為とは違うのだろうか?
私はその話を受けて反論することができませんでした。
以前の記事でも書きましたが、私が大地の再生に関わる理由は自分が自然に対して罪を犯しているという感覚があり、その贖罪のためです。
しかし江本さんの話を聞いて、私が贖罪行為と考えている「環境改善活動」は本当に環境改「善」活動であるのか、分からなくなってしまいました。
無銘さんのスペースとの話から、私は自分の色眼鏡に自分で色を塗っていたことに気づきました。その時の一番の自分の過ちは「深く考えずに何かを『絶対善だ』と思いこむこと」でした。
そしてそれと同じ愚を「環境改善」に対しても犯しているのではないかと気づいたのです。
初めに「土中環境」に出会い、その理論に惚れ、実践を行いました。これこそが私が求めていた環境改善活動だ、と思いました。しかし、そこで示されている「環境改善」で何が起きているのか、そもそも「環境破壊」と呼ばれている状態は何が起きているのか。そういったことを、本で示されている以上に、自分自身で深く考えてはいませんでした。ただ、「土中環境」または「大地の再生」で良いとされている状態を目指し、技術をなぞろうとしているだけでした。
それは先日気づいた仏教に対して行っていた過ちである「深く考えずに何かを『絶対善だ』と思いこむこと」と同じことをしていたのでした。
この過ちを正すには、仏教の実践と同じく人の言っていることを鵜呑みにするのではなく、自分で確かめてから判断することが重要になります。
私は今後も、今参加している環境改善グループの活動に参加するでしょう。「土中環境」や「大地の再生」で説かれている理論は、私にはやはり正しいと思われます。しかし、その活動をする時の私の態度は改めないといけません。
今まではその活動で技術が最も優れている人の言うことをただ鵜呑みにしていました。しかし、本当に大事なのはその人がどう言っているかではなく、現実にその場で起きていることは何なのか、確かめることです。環境改善活動を行って、土の状態がどう変わったのか、植生がどう変化したのか、変化しなかったのか。
また、どの視点において起きる変化が「良い」と見なすかどうか常に考える姿勢も必要でしょう。
牛を救うことで羊を殺しているだけではないか。本当に環境改「善」なのか改「悪」なのか。どの視点で「善」とみなすのか。どういう価値基準を採用するのか。
それについて考えることも大事です。
仏教に続いて環境改善活動においても、自分の色眼鏡に気づかされました。自分がそれまで「善」と思っていたことを揺らがされたことで私の中に混乱がありますが、その混乱は今の私にとっては必要と思われることでもありました。
「これで良い」と居着いてしまっては、心も身体も硬直を始め、劣化していくでしょう。「これで本当に良いのか」と問い続ける、ある種不安定さに身と心を置くことが成長に必要なこともある。やせ我慢も含めて、自分を奮い立たせるためにそう嘯いてみます。
本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
最後まで読んでくださりありがとうございました!
後日、松葉舎の授業にてこの内容をさらに深めることができました。