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戦国時代に興味あり
私は日本の戦国時代に興味があります。
「戦国時代」と気軽に言ってしまいましたが、調べたところ日本の戦国時代は一般に応仁の乱(1467年~1477年)から織田信長が足利義昭を上洛させた年(1568年)を言うそうです。私の興味があるのは織田信長が活躍し始める時期(1560年の桶狭間の戦いくらい)から大阪の陣で豊臣家が滅ぼされる時(1615年)までなので、正確に言うと戦国時代後期から江戸時代初期までに興味がある、と言うことになります。ただ、一々「戦国時代後期~江戸時代初期」と注釈をつけるのも面倒ですので、以下では「戦国時代」で統一します。
私がその頃に興味を持ったきっかけは子どもの頃に読んでいた小説の影響が強いです。なぜか実家にあった吉川 英治の著書を読んで歴史に興味が湧き、他の歴史小説を探していたところ司馬遼太郎の著作にハマり読みまくりました。
司馬遼太郎はいろいろな時代の作品がありますが、私は特に戦国時代や幕末、明治期の小説が好きでした。
さらに、以前も紹介した「太閤立志伝Ⅴ」というゲームにハマって有名無名の武将を知ったこともあり、ますます戦国時代が好きになってしまいました。
私の印象による戦国時代は以下のようなものです。
室町幕府という中央の勢力が全国を統治する体制が崩れ、各地で力ある者や集団が現れ、それぞれの土地を統治していました。
織田信長のようないわゆる戦国大名が有名ですが、「百姓の持ちたる国」と呼ばれた加賀国や海上航路を実質支配していた海賊衆など、さまざまな地域や環境によって独自の自治組織が生まれていました。今でいう地方分権のある意味究極的な形と言えるかもしれません。
また、1543年に鉄砲(当時は種子島と呼ばれた)が伝来して普及することで当時の戦略・戦術に大きな変革を与え、1549年にキリスト教が伝わると日本仏教との軋轢の末に新しい宗教観が生まれるなど、既存の価値観がどんどん崩され、新しいものが生まれてくる、非常に流動性の高い時代だったと言えます。
そのため、才覚のある者は自分の力でのし上がることができた時代でした。その典型例が庶民の身分から天下人に上り詰めた豊臣秀吉でしょう。
しかし、力ある者にとって自由で理想的な環境であっても、力なき者にとっては無法地帯となります。
全国を一律に統治する政治機構がないということは、無法を行われても取り締まる勢力が無いと言うことです。今の日本では法律があり、警察があるので、暴力を振るわれたり土地や財産を奪われたら取り返してもらえる体制がありますが、戦国時代にはそれはありません。
実際には、土地を支配している大名による法律や警察に代わるもの、庶民が自治をしている土地(堺など)では町の掟や自警組織があり、完全な無法地帯ではなかったようですが、今よりも力ある者に虐げられる人も多かったことでしょう。
そのように、既存の勢力や価値観が崩れ、新しいものが日々生まれてくるということが極端に進んだ環境で、それによる良い面も悪い面も生まれてきた激動の時代だったと言えるでしょう。
また、「これが正しい価値観だ」というものがない時代ですので、本当に様々な価値観が生まれてきました。
例えば、江戸時代には武士は一人の主君、一つの家に死ぬまで仕え続けるのがあるべき姿、という価値観が形成されましたが、戦国時代では武士は自分の利益や名誉を大事にしていました。藤堂高虎という武将は「七度主君を変えねば、武士とはいえぬ」という言葉を遺しています。その真意は「自分を適正に評価してくれない場で働くより、自分を最も評価してくれる場で働くべきだ」というものだったと言います。
しかしそういった価値観に説得力があった時代だからこそ、自分の利益よりも主君に忠義を尽くすことを優先した武将が輝いたこともあります。
高橋紹運という九州の大友家という大名の武将がいました。大友家は一時は北九州の大半を手中にいれますが、薩摩の島津家の勢力が拡大し、次第に劣勢に追いやられ、滅亡の危機に瀕します。
その時、北上する島津家を岩屋城で寡兵で食い止めたのが高橋紹運です。
島津軍2万(3万とする説もある)に対して籠城する高橋紹運らはわずか763名。初めから守り切れる戦いではありませんでした。
当時、豊臣秀吉が大友家に懇願され九州を平定しようとしていました。高橋紹運は豊臣秀吉が九州平定に乗り出す時間を稼ぐために命を賭して島津軍を食い止めようとしていたのでした。
高橋紹運は非常に高名な武将だったため、島津軍の諸将は何度も紹運に降伏を促しますが紹運は断ります。戦場で降伏を呼びかけられた時は
「主家が隆盛しているときは忠勤に励み、功名を競う者あろうとも、主家が衰えたときには一命を掛けて尽くそうとする者は稀である。貴方自身も島津の家が衰退したとき主家を捨てて命を惜しむのか。武家に生まれた者として恩・仁義を忘れるものは鳥獣以下である」
と応え、敵味方双方から感嘆の声があがったと言われています。
結果として高橋紹運はこの岩屋城の戦いで戦死しますが、島津軍の攻め手の主将である島津忠長は涙を流してその死を悼み、諸将と共にその遺体(首)に手を合わせたと言われています。
当時の自分の利益、名誉を重んじる風潮がありつつ、こうした忠義を尽くすことを良しとする武人もいる、この多様性こそが戦国時代を象徴していると思います。
私は歴史の専門家ではないので、私の戦国時代観とでも言うべきものは多分に脚色されたものであるという自覚はあります。現実の世界での出来事なので、非常に醜悪な事例やきれいごとでは済まない悲惨な出来事もたくさんあったことでしょう。
ただ、私の琴線に触れる何かがその時代にあり、それを拡大して見せてくれる物語、逸話と言ったものに確かに惹かれる自分もいます。そうした私の心惹かれる逸話などを紹介しつつ、自分がそれになぜ惹かれるのか、ということを今後の記事で言語化していきたいと思います。
また、私が特に興味を持っている辞世の句(死に臨んで読む漢詩や短歌)についても記事にしていければと思います。
本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
最後まで読んでくださりありがとうございました!