父に助けてもらった話
私の父は教育熱心で、かつ厳しい人でした。
父の教育方針は「子どもが未成年の間は親が方向性を決める。成人した後は子どもの自由」というものだったと推察します。私の学校の成績は通信簿などを見ていつも確認していましたし、成績が落ちたときには塾に通うように言われたこともありました。
また、父は「小さい子どもは言って聞かせても分からないから、悪いことをしたら痛い目を見させて分からせる」という意見の持ち主であり、私が小さいころ悪いこと(家の中のものを壊すとか、親の言いつけを守らないとか)をすると必ず平手打ちか拳骨をもらっていました。
私は落ち着きがない子だったのか、たんにアホだったのか、親から怒られるようなことをしょっちゅうする子どもだったので、よく父から平手打ちと拳骨をもらっていました。
なので子どもの頃は父が怖く、「父は私に平手打ちか拳骨をする存在」みたいに思っていました。厳しい、怖い、怒られる、というのが父に対する印象でした。
私が大学一年生の時の話です。
私は大学時代、体育会弓道部に所属していました。弓道部は体育会のため、練習が厳しく、大学の講義が終わってから部員全員で集合して行う練習(合練と呼んでいました)があるため、練習終わりはいつも夜遅くになっていました。
当時の私は実家通いで、姉のおさがりの軽自動車で通学していました。弓道部の練習が終わった後、片道4,50分の道のりを車で家に帰っていました。
練習後なので身体も疲れており、帰りの車では眠気に襲われることもよくあったので、私はいつも、途中のコンビニで20分ほど仮眠をとっていました。
その日も遅くまで練習があり、私は家に帰るところでした。途中で眠くなったので仮眠を取ろうかと思いましたが、仮眠をしたら家に帰るのが遅くなるので、その日は「もうちょっとがんばって帰ろう」と仮眠を取りませんでした。
そして私は事故を起こしました。
私は直線の道路を走っていた時に居眠り運転をしてしまい、車の進路は右に傾き、対向車線を越えて縁石に乗り上げ、道路沿いの家の塀にぶつかり止まりました。幸い、人を轢くことはなく、人身事故にはなりませんでした。
私は縁石を乗り上げた衝撃で目を覚ましました。
縁石にぶつかった影響か、それとも塀にぶつかった影響か、車は壊れて動かなくなりました。
夜遅い時間でしたが、近所の人が目を覚まして人が集まってきました。記憶が定かでないですが、その内の一人が「親に電話した方が良いんじゃない?」とおっしゃったので、そうだと思って家に電話しました。
両親は共に寝ていましたが、すぐに父がタクシーで来てくれました(父はいつも晩酌をしているので自家用車では来ることができなかったため)。
私は真っ先に「怒られる」と思いました。私にとって父は、悪いことをしたら怒る存在だったので。今回も、こんな事故を起こしてしまったので、きっと怒られるだろう、とそれだけが怖くてびくびくしていました。
父は私を見てまず「無事か?!」と聞きました。私は頷きました。そして父は私と壊れた車を見て「そうか……」と言い、「無事で良かった」と言いました。
私はいつ怒られるのかとびくびくしていましたが、父は私にそれ以上何も言わず、淡々とレッカー車を呼んだり、集まっていた人に謝っていたり、私がぶつかった塀の家の人に謝ったりしていました。
父が一通りの後始末をしてくれたあと、私と父はタクシーで実家に帰りました。その時のことは、私もショック状態だったのでよく覚えていません。帰って飯を食って寝たと思います。家に帰って父に叱られなかったということだけは確かです。
私は父に叱られなかったのが意外でした。
私はそのとき、自分のことしか考えていませんでした。事故起こしてどうしよう、事故起こしたと大学に知られたら風聞が悪い、部活のみんなにもどう説明しよう、大学に通うのも不便になる、怒られたら嫌だな 等々…。
父が淡々と後始末をしてくれたことに感謝もせず、ただただ自分のことばかり考えていました。
後日、日を改めて塀にぶつけてしまった家の人に詫びを入れに行きました。私は「詫びを入れないといけない」という考えすらなかったので、当然父の提案です。父が一緒に詫びに行ってくれました。
幸い塀の傷は大きくなく、少しこすった後が見えるくらいのものだったで、家の人は修理費等は請求しません、と言ってくださり、詫びだけですみました。家の人への状況説明はほとんど父がしてくれ、私は最後に謝ったくらいしかしていませんでした。父に完全におんぶにだっこです。
詫び入れが終わった後、父は私に「いい勉強になったやろ」と言いました。やはり叱ることはありませんでした。その言葉に私が何と応えたか、よく覚えていません。
私はその後、ふつうに大学生活を続けました。車が無くなったので、大学の寮に入って一人暮らしをするという変化はありましたが、父に対してこの時のことを特別恩に感じた、ということはありませんでした。
この一件を振り返り、父への印象が変わったのは、私が内観法(内観療法)を受けたときです。
内観法の説明は以下のページに譲って詳細の説明は省きます。
簡単に言うと、特定の相手に対して「していただいたこと、お返ししたこと、迷惑をかけたこと」を年代を分けて順々に思い出していく心理療法、精神修養法です。
内観法を受けている時に父がただ怖いだけの存在ではないことに気づきました。
子どもの時に冬になったらスキーに連れて行ってもらったこと。芸術に触れさせようと、美術館やミュージカルによく連れて行ってくれたこと。夏のお盆に父の実家に里帰りして遊んでくれたこと。私がビデオゲームが好きなのでゲームを買い与えてくれたこと。河島英五の良さを語ってくれたこと。私立の中・高に通わせてくれ、大学にも通わせてくれたこと。
私が楽しいと思えないこともあったけど、父なりの愛情の示し方だったのだと気づきました。
そして私が事故を起こしたあの夜、父はとても心配し、動揺し、私のために駆け回ってくれたことにも思い至りました。
母から後で聞きましたが、父は私から事故の電話を受けたとき酷く動揺し、飲酒しているにも関わらず自分の車を運転して事故現場に行こうとしたそうです。規則、規律を守ろうとする父に相応しくない行動です。「早く行かないと」という思いが強くなっていたのでしょう。母が必死で止めて、タクシーを呼んでくれました。
事故現場に到着して無事な私を見て「無事で良かった」と言ったのは、本当に本心からの一言だったのでしょう。私は自分のことでいっぱいいっぱいで気づきませんでしたが、父は本当に胸をなでおろしたのだと思います。
父が事故後の処理をしている時も、私が当時思っていたほど冷静では無かったのでしょう。でも、無事な私の姿を見て、少しは冷静さを取り戻していたのかもしれません。飲酒運転を思わずしようとした時よりはずっと落ち着いた態度だったのだと思います。
父はこの事故のことを、後々になって私に話題として振ることはありませんでした。この話題に触れたら、どうしても私に恩を着せる感じになるからでしょう。
父は一部保守的な価値観を持っていたので「子どもの不手際の後始末は親がするべき」と思っていた節があります。だから父にとってこの事故での対応は当たり前のことで、それをわざわざ特別に考えていなかったのだと思います。
私は当時の父の気持ちなどに思いを巡らせて想像し、涙しました。
当時の自分のことしか考えていない私の心との対比が非常に対称的だったからです。自分のことしか考えていない私と、相手(私)のために駆けずり回る父と。
まあ私が内観をして涙した後、実家に帰った時、父(と母)に突然感謝の言葉を述べたら「新興宗教に入ったのか?!」と本気で心配されたんですが……。感謝の言葉を伝えるのは難しい。
父に大きな恩を感じた一件でした。
さて今回は、チェーンナーさんの企画「バトンリレー企画2023 ◎人生は人喜ばせ合戦」のバトンをいただきまして書いた記事です。
書くテーマとして「してもらって嬉しかったこと」も含まれるということで、今回はそのテーマで書かせていただきました。
なお、バトンはああたはじめさんからいただきました。
「テーマに沿って文章を書く」という経験が無かったので、今回の企画は苦戦しましたが面白かったです。チェーンナーさん、ああたはじめさんありがとうございました。
この企画、8月10日までとのことで、私が受け取ったバトンは私で終わらせて良いかなと思ったのですが、読んで見たいと思うnoterさんがいらっしゃるので、期間が短いですが受け取っていただけると嬉しいです。
その方は 西園寺える さんです。
えるさんは愛についてのシリーズで記事を投稿されているので、今回の企画にフィットするに違いない!
えるさんがバトン受け取れないようでしたら私にお返しください。私がバトンのアンカーにしますので。どうぞよろしうm(_ _)m
本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
最後まで読んでくださりありがとうございました!