女人花
こんにちはセバスチヤンです。
今回は日本の二胡弾きさんに人気のある「女人花」を取り上げたいと思います。香港の大スターアニタ・ムイさんの大ヒット曲です。
(以下、この記事では敬称略でアニタ、に統一します)
まずはオリジナル版をお聞きください。
https://www.youtube.com/watch?v=gCvoEQfgq9c
女人花の日本語歌詞
歌詞があるので、やはりどんな内容の歌か気になるところですよね。
歌詞の転載やどなたかの訳詞の転載は著作権などの関係がよく分からなかったので、稚拙ながら私が過去に日本語の歌詞にしたものをここに記載します。これは直訳ではなく、そのまま歌えるように言葉数をメロディーに合わせてあります。もし気に入られた場合は、ご自由に使っていただいて構いませんが、一言「ヤン・シーロン訳」と添えていただけるとありがたいです。
女人花 日本語歌詞(ヤン・シーロン訳)
陽だまりに芽吹きだす心の花は
咲く時を夢見ている 大きな愛で
女人花 雨に濡れる
女人花 風に揺れる
いつでもその愛で 優しく包まれる
この想い伝えたい 愛しき人よ
人生は花のごとく うたかたの夢
勿論楽曲の素晴らしさもあるのですが、この曲が香港の人に人気があるのは、この曲を歌ったアニタの生き様をこの歌に重ねているからではないか、とセバスチは想像します。
それを確認するために、アニタが駆け抜けた40年間という短かすぎる人生の物語をご紹介したいと思います。
映画「アニタ」
2021年にアニタの生涯を描いた映画「アニタ」が公開されました。映画は異例の大ヒット。香港市民の9人に1人が本作を見た計算になるそうです。いかにアニタが香港の人に慕われていたかが分かりますね。「アニタ・ムイについて知らなければならない10個の事」という中国語の記事を見つけましたので、その記事と映画「アニタ」から内容をかいつまんで、アニタの生涯を紹介したいと思います。
記事はこちら
https://www.gq.com.tw/entertainment/article/梅艷芳-生平
家計を助けるために姉と歌う日々から人気歌手へ
アニタは貧しい家庭に生まれ育ち、家計を助けるために母親が設立した歌舞団で4歳から姉と一緒にステージに立ち歌っていたそうです。物心がついた頃には父は既に他界しており、父親の記憶が全くなく、学校の友達とも遊ぶことはなくいつも歌の練習ばかり。大人になると歌舞団を出て、姉とのデュオでナイトクラブで歌う生活が続きます。そんなある日、ナイトクラブで音楽プロデューサーの目に留まりテレビの歌謡コンテストに出場することを勧められます。姉妹揃って応募するも姉は書類審査で不合格、妹のアニタだけが合格し、本選へ出場。本選で見事優勝しました。
その後はレコードデビューも決まり、人気はうなぎ上り。
媚びない低い声、男装からセクシーな衣装までこなし、過激な歌詞に男性ダンサーとの絡みあう振り付けなど、当時の女性人気歌手の常識を覆す戦略で、香港の女性のオピニオンリーダー、業界でも姉御と呼ばれるようになります。歌手としてのみならず女優としても主演した映画が大ヒット。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いとはこのことです。
近藤真彦
近藤真彦が香港へキャンペーンに来た際に、レコード会社の紹介でアニタと知り合います。アニタはこのちょっと前に東京で開催された音楽祭に出演しており、近藤真彦もその様子を見ていたようです。言葉が通じないながらも2人は恋仲に発展。アニタはその後お忍びで何度も東京に通うようになります。近藤真彦の家の鍵も渡されていたようで、夕飯を作りながら近藤の帰りを待つシーンも。
やがて2人のことはジャニーズ事務所社長に知られるところとなり、アニタは近藤真彦に迷惑をかけないよう、身をひくことを決意します。近藤と別れた後も、香港の歌手の何人かと恋仲になるようですが、いずれも成就せず、結局独身のままでした。
映画の後半では、近藤と破局してから15年後に、アニタが再び伊豆の旅館を訪れるシーンがあります。そこはまだ恋人同士だった時に近藤と過ごした思い出の場所でした。そこで近藤の結婚祝いのプレゼントを渡すと同時に、自分の死が近づいていることを中国語で告げます。
(当然、中国語を理解しない近藤は言われていることが分からないまま)
芸能界から逃げる日々と社会活動
幼い頃から苦労を重ねてきたからか、自分の主張を曲げないアニタ。その性格が災いし、当時香港の芸能界を仕切っていた暴力団関係者とトラブルを起こしてしまいます。それがきっかけで芸能界を離れ国外で逃げるような生活を余儀なくされます。それがアニタにとって1つの転換点となりました。その生活の中で、自分は一人で自分の力だけで生き抜いて来たのではなく、色々な人に助けられてきたのだ、ということに気づきます。
その頃、SARSの流行、香港の中国返還と香港を取り巻く環境も大きく変わり、香港を離れ海外に移住する人が増えてきました。アニタにもこのまま香港を捨てて海外で芸能活動を再開する話も持ち上がりますが、自分は後にも先にも香港人だと断り、香港に帰って芸能活動を再開することを決意します。芸能界に復帰後は、芸能活動に加えボランティア活動や慈善活動も精力的に行うようになります。それを芸能界を離れていたブランクを埋めるための売名行為だと揶揄する人達もいましたが、次第に彼女の言動は人々の支持を集め、再び芸能界の姉御と慕われるようになっていきます。
大事な人が次々と
アニタが芸能界の唯一の親友と慕うレスリーチャン。お互いに40歳になっても独身だったら結婚しようね、と約束するほどの仲でしたが、レスリーチャンはアニタにも内緒で突然ビルから飛び降り自殺を図り、この世を去ります。ほどなく、子供のころから苦楽を共にしてきた最愛の姉も子宮がんで40歳で急逝。立て続けに起きた不幸に打ちひしがれる間もなく、自分自身の体にも姉と同じ子宮がんが発見されます。
最後のコンサート
子宮がんを患っていることを公表した後、医者からは即刻芸能界を引退し治療に専念することを勧められますが、「私にはやり残したことをやる時間がもうわずかしかない」と周囲の反対を押し切り病人とは思えないペースでコンサートを開催します。インタビューでは必ず病気を克服して見せます、ときっぱり言いつつ、自分の運命を悟っていたのかもしれません。
そして、デビュー時から父と慕う専属スタイリストのEddieに「最後のお願い」をします。おそらく最後になるだろうコンサートで花嫁衣裳を着たいので、自分用のウエディングドレスを作ってください、と。
そのコンサートでの出来事。最後の1曲。花嫁姿でステージに現れたアニタが選んだ曲は近藤真彦の「夕焼けの歌」でした。広東語に訳されて、映画の主題歌にもなるなどアニタの持ち歌としても有名でしたが、この曲をウエディングドレスを着て歌うということが彼女のやり残したことだったのでしょう。
「私は映画で何度もウエディングドレスを着てきましたが、全部自分のものではありませんでした。今日やっと自分のためにドレスを着れました。私は歌に、ステージに、そしてファンの皆さんに嫁ぎました。夕焼けは夜になる前の最後の輝きで美しい。でもあまりにも短い出来事であっという間に何もなくなってします。今の私の気持ちを表すのにはぴったりでこの曲を最後の曲として選びました」。そうコメントして歌い始めます。後半ドレス姿で歌いながらチャペルの大階段を模したセットをゆっくり一段ずつ登っていきます。歌も終わり、伴奏だけになったところで一番上まで上り詰めます。最後にアニタは「バイバイ!」と手を振って退場します。
そのバイバイはコンサート終了のバイバイでもあり、きっと彼女の人生に向かっての言葉でもあったのでしょう。
コンサートの45日後にアニタは息を引き取りました。奇しくも姉が亡くなった時と同じ、40歳でした。
この花嫁姿で夕焼けの歌を歌う様子はネットで映像があがっています。これは映画ではなくアニタ本人のコンサートの模様です。
https://www.youtube.com/watch?v=wiQJ2gYGLk4
改めて女人花
気丈で自分の意見を曲げずオピニオンリーダーとして、姉御として常に強い自分を見せ続けていたアニタ。
そんな彼女が純粋に好きな人に愛されたい、という心情を綴った「女人花」は、アニタの新たな一面を見せることになり、失恋や苦労した彼女の人生を知るファンの共感を大いに呼んだことでしょう。
このエッセイの最初に貼った女人花の歌のリンクと日本語歌詞を、今改めて見てみて下さい。彼女の生き様を重ねると、この曲に対し今までとはまた違った思いが生まれるのではないでしょうか?
今回も長文にお付き合いくださりありがとうございました。セバスチヤンでした。