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中国語記事ザッピング:病中吟2

前回に続いて、劉天華の病中吟を見ていきたいと思います。


二胡という楽器の位置づけ

劉天華の時代では(勿論それ以前も)、教養ある正統的な音楽と言えば宮廷音楽であり、それはごく一部の人達のものでした。宮廷音楽で使う中国楽器と言えば、琴、笛、琵琶などです。二胡という楽器はその日暮らしの大道芸人などが日銭をかせぐために街角で弾いているレベルの低いものという位置づけでした。前回もご紹介した映画「劉天華」の中にもそれを示すエピソードがいくつか出てきます。

【劉天華の子供の頃の回想シーン】
粗末な二胡を適当に弾いて遊んでいたところ、知識人である父に二胡を取り上げられ、地面に叩きつけられ壊されてしまいます。「こんな卑しいもので遊んでる暇があったら勉強しろ」と怒鳴られます。

【北京大学に講師として招聘されたことを妻に打ち明けるシーン】
北京はここ(江蘇省江陰市)以上に二胡の地位が低い。だから自分は琵琶の講師として招聘されたんだ。うまくやっていける自信がない、と心情を打ち明けます。

【北京大学の教室で琵琶を演奏しているシーン】
講師として就任したばかりの時に、誰もいない教室で琵琶を弾ていると、たまたま通りかかった同僚の音楽の先生が慌てて教室に入ってきて、素晴らしい琵琶の音色だ、もっと聞かせて欲しいと劉天華に興味を抱きます。気をよくした劉天華は「実は私は琵琶よりも二胡のが得意なんです、
もしよかったら聞いてもらえませんか?」と言うと同僚の先生は急に顔色を変え、「いえ、それはまた今度」と教室を出て行ってしまいます。

病中吟の病とはいったい何の病?

前回のエッセイで掲げた3つの疑問のうちの2つ目について書きます。
(まだ前回のエッセイを読んでない方は是非チェックしてみてくださいね)
この疑問についてはいくつかの日本語の記事でも記載があります。
ここで言う病とは肉体的な病気ではなく、心の病。当時の混乱した中国内政に憂いを感じた劉天華が未来への希望を込めて作った曲、であると。
私はその説明に表面上は理解できてもイマイチ腑に落ちませんでした。
私は、次の記事を読んでピタッとはまりましたのでご紹介します。
https://www.huain.com/article/other/2022/1017/1334.html

もともとこの曲の名前は「胡適」という曲名でした。
古代中国語で迷っている、という意味で、私の人生とは一体何なのだろう、この先どこへ向かって行くのだろう、という意味だそうです。
たまたま当時の文人で「胡適」という方がいらっしゃったそうで、同じ名前ではまずい、ということで似たような意味を持つ「安適」に変えたそうです。ところが、この安の文字は2つ意味があり、劉天華は「不安」の安の意味だったのですが、「安楽」つまり、ネガティブではなく、ポジティブな意味の安にも取れることから真意が誤解されやすい、ということで「病中吟」と名前を大幅に変えたとのことでした。

オリジナルタイトルをもう一度見てみましょう。「私の人生は一体何なのだろう、この先どこへ向かうのだろう」。これがぴったりはまりました。前回のエッセイでも触れましたが、この曲の構想が最初にできたとされた年代、劉天華の身に起こったことをもう一度ピックアップしてみると下記のようになります。

・家が貧しく進学を断念。兄に連れられて上海で音楽関係の仕事に就くも2 
 年足らずで失業。
・故郷に戻り地元の中学に音楽教師として雇われるも他の教師とそりが合わ
 ず半年で解雇。(当時の中国では西洋音楽崇拝が激しく、国楽(民族音  
 楽)を主張する劉天華は煙たがられたという話)
・父が他界
・幼馴なじみと結婚

失業と(家族の)喪失、何をやっても思うように進まないし続かない事態を嘆いていてその思いを曲に託した、と考えると、血の通った生身の人間が浮かび上がりすっと腑に落ちるのです。

彼の人生はこの後の北京大学での教師生活で大きく発展します。
ただ、当時北京では大学生を中心に五四運動という思想闘争が盛んであり、誰もが政府に不満を抱いていました。そしてその運動がエスカレートした結果、彼が勤めていた北京大学音楽講習所も閉鎖されてしまいます。北京に来て5年でまたもや失業してしまいました。せっかく水を得た魚、北京で彼がやりたいと思っていたことが1つずつ叶い始めた矢先にまたもや急展開。彼の人生はこのように何をやっても思うように進まないという事の繰り返しだったのです。ですので、病中吟=「私の人生、この先どうなるのだろう」という曲は劉天華のテーマソングなのでは、とセバスチは考える訳です。多かれ少なかれ劉天華のみならず、このテーマは誰しもが抱えているはず。そう考えるとこの曲が、そして劉天華が急に身近に親しく感じられませんか?

民族音楽改革は何故必要?

セバスチの疑問その3です。今回のエッセイの冒頭にも書きましたが、二胡と言う楽器は長らく地位の低い楽器でした。劉天華は二胡、ひいては大道芸人が街中で演奏している卑しい音楽こそが中国の一般市民に愛されるものであり、音楽は一部の貴族の間だけで楽しむものではないと考えていました。
映画「劉天華」の中でも北京大学の同僚にそのように語っているシーンがありました。また、五四運動では、中国は帝国列強に大きく劣っているから、国際的にひどい扱いを受けるのだ、と中国の古い考え、伝統的な思想や文化を排斥し、西洋のものを積極的に取り入れる動きが盛んでした。
音楽の世界でも西洋音楽が進んでおり、民族音楽は劣っているとみなされる風潮がある中、劉天華は西洋の進んでいるものを積極的に取り入れて、民族音楽を人前に出しても恥ずかしくないようにしようと考え、一連の「改革」に取り組んだのです。西洋音楽のみに傾倒しなかったのは、やはり中華民族の琴線に触れるのは民族音楽である、という強い信念があったからでしょう。

北京大学での同僚、ロシア人のグノフ先生と親しくなったのも大きかったようです。グノフ先生はバイオリンの先生でしたが、劉天華は教鞭をとる傍らグノフ先生からバイオリンならびに西洋の音楽理論の個人指導を受けていました。すべてはそれらのよいところを二胡や民族音楽に取り入れることで、民族音楽を進化させ、西洋音楽と比肩できるものにするためです。
そして劉天華の元に集まる生徒と共に「国楽改進社」を結成し、色々な新しいことに挑戦して行きます。

では、具体的に劉天華はどのような改革を行い、どのようにして二胡を卑しい物から西洋楽器に比肩できるものとしたのでしょうか?それについては今回はここでは扱いません。日本語でもググればいくつか関連記事が出てくると思うので是非検索してみてください。さっくりいえば、楽器の構造変更、楽曲の構成、演奏方法の変更、などです。もしリクエストが多ければ、またいつかここで取り上げるかもしれませんが、とりあえず今回は無しで。

劉天華にまつわるエトセトラ1~北京での生徒との交流

五四運動の高まりを受け、閉鎖されてしまった北京大学の音楽講習所ですが、その後も劉天華は生徒に請われて、亡くなるまで5年ほど指導講師として北京大学に残ることにします。国楽改進社での音楽の実験と挑戦は本当に楽しかったのでしょう。新曲ができるとまず、生徒に弾いてもらっていたと言います。今も多くの二胡の先生はご自分の作曲された曲を教材にレッスン
したりしていますが、劉天華の時代もそうだったのですね。
そんな気ごころの知れた仲間が一緒に年越しをするために劉天華の家に集まりました。その時に劉天華が即興で弾いた曲が今に伝わる良宵(別名除夜小唱)です。愛弟子の1人、沈仲章さんの息子さん、沈亜明さんの回顧録に劉天華と生徒の交流の様子が描かれています。記事はこちら。
https://www.huain.com/article/erhu/2023/0201/1605.html

劉天華にまつわるエトセトラ2~ピアノで作曲?

どこまで史実に基づいた演出か分かりませんが、映画「劉天華」の中で、国楽改進社での発表会に向けて新曲を作成しているシーンがあります。曲は光明行なんですが、この時自宅でピアノを弾きながら作曲しています。
右手で主旋律、左手で和音を奏でて曲を作っているのですが、和音をつけると西洋の曲っぽく聞こえます。

劉天華にまつわるエトセトラ3~二胡十二大名曲

劉天華は生前10曲の二胡曲を書きました。それらは十大名曲と呼ばれたりもします。ところが、先の記事によると劉天華は弟子である沈仲章さんに二胡の曲12曲を譜面化する予定だと語っていたという。記譜などもお弟子さんが手伝っていたのでこういう話も出たのでしょう。
残念ながら10曲完成したところで劉天華は急逝してしまうので、残りの2曲は譜面になることはありませんでした。一体どんな曲だったのでしょうね。

今回は病中吟を中心に、また曲の成り立ちと言う意味では良宵も軽く触れましたが、劉天華の人生についてザッピングしました。他の曲も色々エピソードがありそうで、また機会があれば取り上げたいと思います。
今回も長文にお付き合いいただきありがとうございました。セバスチヤンでした。


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