(7)七計について-竹簡孫子 計篇第一
それでは「七計」について解説をしていきます。
「七計」とは敵国と自国との間に、死生の立場を決定するための比較事項です。
主は孰(いず)れか賢なるか、
将は孰れか能(のう)なるか、
天地は孰れか得たるか、
法令は孰れか行われるか、
兵衆は孰れか強きか、
士卒は孰れか練れたるか、
賞罰は孰れか明らかなるか。
まず孫子を読み解く一つのルールとして、順番に意味や繋がりがあるということです。
この「七計」は、最初の「主は孰(いず)れか賢なるか」が実現できて、はじめて次の「将は孰れか能(のう)なるか」が実現できます。このように優秀な将軍がいて、初めて戦略の中心に「天地」の活用し、有利な状況を作り出せます。戦略の中心に「天地」を活用できるほどの能力があって、組織体制やルールの制定、規律を作り出せる。組織体制や規律があって、はじめて兵数や装備など戦力を充実させることができる。戦力が充実できてはじめて兵士の訓練を徹底でき、組織の訓練が徹底できてはじめて、賞罰に不公平さがなく納得感を作り出せる。
このような順番は、勢篇で述べられる「分数」「形名」「奇正」「虚実」や、軍争篇で述べられる「気」「心」「力」「変」に当てはまります。
次に竹簡孫子と現行孫子の違いについても解説します。竹簡孫子は「主は孰れか賢なるか」であるのに対して、現行孫子は「主は孰れか道なるか」とされています。
「道」は、「あるべき理想の姿」の意味で、ビジョンや理念、国家の大義に置き換えるとわかりやすいかもしれません。現行孫子は、君主に「道」があるかを敵国と自国の間で比較せよと変更されています。現行孫子を編集整理したのは三国志の英雄曹操と言われていますが、曹操が自分の部下にライバルの劉備や孫権を比較して、大義があるかどうか、豊かな政治ができているかを知らしめるために変えたのかもしれません。もしくは君主の立場で、部下をうまく使いこなせているかを言及してしまうと、自分の人事に不満を持つものへの気まずさがあり、配慮して変更したのかもしれません。
しかし、「賢」を「道」に変えてしまったことで、竹簡孫子にあった「万物の根源」「自然の摂理」として奥深い意味を含んでいた「道」が、あるべき姿、ビジョンといった目に見えるものに変わったしまったと感じます。
また、「道」にしてしまったことで、実用性を失わせてしまったとも感じます。というのが、現代の政治においても、会社経営にしても、ビジョンや経営理念の言葉は素晴らしくとも、まったく部下がついてきていない事例がたくさんあります。そういう意味でも、主に関しては「賢」、有能な部下を使いこなせる英邁さと解釈する方は、東洋思想の深淵さを失わないと思います。
次に見ておきたいのは、「兵衆」「士卒」の違いです。現代人の我々から見ると違いを感じにくいのではないでしょうか。
「兵衆」は、兵力数や装備などの戦力の寡多であり、「士卒」は一人一人の兵士の練度です。「孫子」では、「強弱」とは「形」であるといっています。「形」とは戦力を充実させているかどうかです。「形」を陣形などの軍隊の形と読むと、孫子を読みすることはできません。「勢」や「虚実」との繋がりがわからなくなります。
最後は「賞罰」についてです。最終的なチェック項目です。例えば、現代において、素晴らしいリーダーが陣頭指揮を取り、素晴らしいサービスを作り、地の利を得て出店し、売り上げも好調といった会社があったとしても、賞罰が明らかになっていないとなれば、従業員は不満を持っていることになります。砂上の楼閣であることがわかります。