【長編小説】あの日の続きをキミと共に歩けたなら(1)
急に左耳が聞こえなくなって仕事を辞めた。しばらく仕事をせずに休んでいたら、アパートの大家から出ていくように言われた。実家とは疎遠で、叔父が管理する曽祖母の家に移り住んだ。十八年前に曽祖母が亡くなってから空き家になっている、群馬県の山間部にポツリと建っている古い農家の家だ。
無駄に部屋数が多い平屋。広い土間の横にある居間と、茶の間の向こうの部屋を一つ片付けて寝室として、何の目的もない生活を始めたのが今年の春のこと。四ヶ月ほどが経過した現在、深い緑の山は賑やかな夏を迎えている。
左耳の聴力は、若干の聞こえづらさを残してほぼ治癒した。やはりストレスが原因だったのだと結論して、ストレスレスな生活を心がける。大切なのは家を出ないこと。人間と会わないこと。
朝、透明な陽光と蝉の大合唱の中で目を覚ます。顔を洗って、適当なTシャツとスキニーパンツに着替えて、玄関を出てすぐの畑に行く。
納屋に放置されていたキュウリとトマトの種を撒いてみたら思いのほか上手く育った。市販より大きくなったキュウリと真っ赤なトマトを数個収穫し、屋内に戻る。洗うのは面倒だから省略。居間に上がり、コタツテーブルに寄りかかってキュウリを齧る。青臭さはなく、みずみずしい。
これが彼女、東雲凪の最近の日常だ。数年前まではもっと精力的に日々を過ごしていた気がするけれど、今となってはカケラだって思い出せない。
凪の曽祖母、東雲和子は凪が六歳の時に他界した。生前は大した交流があったわけではないけれど、一度だけ父に連れられてこの家を訪れた時に和子が言った言葉は、二十四歳になった今の凪の中にも残っている。
『この家には幽霊がいるのよ。自分が死んだことに納得してない、怖い怖い幽霊よ』
九十歳を超えた和子が、幼い孫にだけ聞こえるように囁いた言葉。あの時は曽祖母が特別な秘密を自分にだけ話してくれたのだと思ったけれど、大人になった今になって振り返ってみると別の見解に至る。きっと、あの頃にはすでに認知症が進んでいて、わけのかわからないことを言うようになっていたのだろう。他の大人に聞かれたら馬鹿にされる。でも話したい。だから世界のなんたるかも知らない幼いひ孫を相手に選んだ。
「……もしくは、死者は丁重に扱えとかっていう暗示だったか」
朝食代わりのキュウリとトマトを平らげて、腹が水分で重くなって寝転んでいたら、ふと曽祖母の言葉を思い出した。居間の隣、茶の間の向こうの北側の一番日当たりが悪い部屋が仏間であることは、引っ越してきてすぐに確認していた。
曽祖母の荷物が整理もされずに押し込まれた和室の奥に、煤けた仏壇がある。ちらりと見てそのままにしていた景色をふと思い出し、凪は起き上がった。
新卒で就職した高校を退職してから仕事をしていない。そもそも新たな就職先を探そうともしていないし、まだ探そうという気にもならない。
時間を持て余していた。だから、余計なことをするに至った。
曽祖母の言葉を思い出して、死後の世界も幽霊も信じていないけれどなんとなくあの仏壇をそのままにしておくのは憚られて、仏間の掃除を始めた。
室内を埋め尽くしていた荷物のほとんどが、服や布団や古い書籍の類い、つまりゴミだった。それらをせっせと袋に詰めて、紐で縛って、スマホでゴミ収集日を調べて、部屋から運び出す。すっきりした部屋に掃除機をかけて、次に目についたのは仏壇だった。
「捨てる……ってのはなんか違うよね」
かと言ってどうすることもできない。現代によくある核家族の家庭に生まれた凪にとって、仏壇は馴染みのないものだから、管理しようにもどれが何やらさっぱりだ。真ん中に配置された仏像のようなものを見て首を捻った時、奥の端に鈍く光るものを見た。
「……懐中時計?」
それが仏壇に必須のアイテムでないことは、凪の目にも明らかだった。
手に取ってみる。漢文の授業で出てきそうな感じが羅列された置物や、線香の灰が詰まった入れ物より、それはずっと古いもののようだ。サイズは凪の手のひらにピッタリ。錆で覆われていて、高温で熱せられたのか表面の装飾がのっぺりとしていてゼンマイの出っ張りはへしゃげている。
どう見てもゴミだ。そう結論し、不燃ゴミの袋に放り入れようとした、その時。
「捨てないでくれ」
すぐ後ろで、低い男の声がした。
「っ!」
反射的に飛び退いて、振り返りつつ出口の方へ。見ると、さっきまで凪が立っていた仏壇の前に、大柄な人影があった。驚きで息が詰まって、恐怖で胃がギュッとなる。なぜここに人がいる。どこから入った。いつからそこにいた。
「それは“俺”なんだ。頼む。ここに置いておけないなら便所の隅でも床下でもどこに置いてもいいから、捨てないでくれ」
そんなわけのわからないことを言われたが、凪の意識は人影の言葉よりその姿の方に向いていた。
かがまなければ鴨居に頭をぶつけそうなほど背の高い男だ。服の上からでもわかるがっしりとした体躯で、よく日に焼けた浅黒い肌をしている。パサパサに乾いた黒い短髪。少し長めの前髪の間から覗く目は、今は困ったように目尻を垂らしているが、造形はオオカミを彷彿とさせる鋭さがある。
日本人にしては彫りの深いキリッとした顔立ちで、大柄な体躯と合わさるとファッションモデルだと言われても違和感はない。けれど、彼は絶対にモデルではないし、明らかにおかしい。何より一番おかしいのは、彼の服装。
その服を、凪は知っている。テレビで俳優が着ていたとか、最近の流行りだとか、ファッション雑誌で特集されていたとかそういう話ではない。もっと一般的。おそらく、義務教育を受けた人間なら一度は目にして覚えているだろう。
歴史の教科書。近代の終わりの、太平洋戦争の資料写真で。男は戦時中の下級兵士が着用するカーキ色の軍服を纏っていた。
「……おい、聞いてるか?」
状況把握が間に合わず動きを止めた凪に、男が眉根を寄せる。長身を折って目線を合わせ、正面からこちらを覗き込んできた。ジリジリと近づいているのは、懐中時計を奪おうという魂胆だろうか。それとも、不法侵入を咎められる前に制圧しようというつもりか。
「何で黙ってんだ。……凪?」
名前を呼ばれて、凪は理解を諦め思考を中断した。
なぜこの男は自分の名前を知っている? もしかして以前会ったことがあるのかと記憶を辿るも、旧日本軍のコスプレをして人の家に勝手に入るような知り合いはいない。
そもそもの話、住人に許可なく他人の家に入る時点で、彼が何者であろうと犯罪者以外の何でもない。そのことに凪が気づいた時には、徐々に近づく男はすでに手が届くほどの距離まで迫っていた。懐中時計を左手に、右手を強く握りしめて拳を作る。
「おい、大丈夫か? もしかして具合がわギュ!」
不法侵入という犯罪を犯しているのになぜか無防備に近づいてくる男目掛けて、凪は渾身の右ストレートを放った。
「変態!」
そして考えるより早く叫びを上げる。言ってから「いや『変態』は違うよな」と思い至るがこの際どうでもいい。
力一杯男の左頬を殴りつけたが、男は首を少し傾けた程度でびくともしない。体格差がありすぎる。武器を探すべきか、逃げるべきか、考えながら距離を取って、スキニーパンツの尻ポケットにスマホを入れているのを思い出した。
男が頭を振ってこちらに向き直る。「おい、突然何す」まで言ったところで、彼の目の前に一一〇を打った状態のスマホを突き出した。
「動かないで! 変なことしたら通報する」
「待て待て待て。落ち着け。俺は変態じゃない」
「どう見ても変態でしょう。何その格好!」
「これは帝国陸軍の軍衣だ。別に変態的な服じゃない」
「変態じゃん! 何なの帝国って、真面目腐った顔してふざけないで!」
「ふざけてないし、頼むから落ち着いてくれ。ちゃんとわかっている」
「はぁ? 何を」
「大東亜戦争は終わった。終戦から八十年経った。もうすっかり日本は変わっていて、戦争なんか忘れられてて、お前が持っているそれは『すまーとほん』ってやつだ」
「そんなこと誰でも知ってるわ!」
やっぱりおかしい。この男は変だ。変態だ。自分が太平洋戦争に関わる何者かと誤認していて、思い込んで、思考し行動している。頭が変なのだ。そういう人間はいつ何をしでかすかわからない。
凪の体の中を膨れ上がる恐怖が満たしていく。アパートを追い出されて、もう人間と関わりたくなくて、だから周囲が空き家だらけの限界集落であるこの村に来た。一人でも大丈夫。そう思っていたのは、周囲に人間がいないことが前提だった。
こんなものに遭遇するとは予想していなかった。こんなに巨大な男を前に、小柄な自分だけで対処できることなどない。
考えていたら悲しくなってきた。どうしてこんな目に遭わなくてはならないのか。神様なんて科学が未発達な時代の人間が世界を説明するために作った仮説にすぎないなどと考えているから、本当に存在する神様が意地悪をしているのか。でも、やっぱり、神様なんて存在しないに決まっている。
おかしな方向に思考がぐるぐると回り始めて、鼻の奥がツンとしたと思ったら、目の前の男がギョッとした顔をして「少し待て!」と踵を返した。部屋の奥の本棚に向かい、中身を物色し始める。
凪はこの隙に逃げようかと後ずさったが、男はすぐに目当てのものを見つけて戻ってきた。一メートルちょっとの間を開けて凪の前に立ち、曽祖母の古いアルバムを目の前に広げる。
「俺は多々良益臣。和子の元夫で、大東亜戦争で招集されてそのまま戦地で死んだ」
「ひいおばあちゃんの苗字は東雲だよ! 多々良じゃない」
「ああ。終戦後、和子は再婚したんだ」
「そんな話聞いたことない!」
「見合いで結婚して、その足で俺は出兵して死んだからな。なかったことになるのは無理もない」
「ふざけないで! ひいおばあちゃんは生きてたら今は百十歳だよ。あなた百十歳なの!?」
「外見年齢は二十七歳だ。二十七で死んだから」
「意味わかんない!」
「本当のことなんだ。ほら、見ろ。ここに写真がある」
男が広げたアルバムには、元は白黒写真だったのだろう、随分と古い、色褪せて端がところどころ千切れた写真が数枚収まっていた。男の骨ばった指がその中の一枚を指す。椅子に座った若い女性の隣に、軍服姿の男が立っている。
それは、今、目の前にいる男と寸分違わぬ姿をしていた。
「俺は死んで、骨と遺品と共にここに来た」
「……」
「骨は和子が東雲家の墓の隅に弔ってくれたが、遺品……その懐中時計はここにあり続けて、俺はここに存在し続けてる」
「……」
「だからそれは俺なんだ。頼むから、ここに置いて……凪?」
「……」
「おい、凪、聞いてんのか。おーい」
「……お」
「お?」
「お、おおおお」
「おい、どうした。大丈夫か?」
「お化けぇ!」
もうなんだかわからない。とにかくこの場を逃げ出したくて、足を引いた。半開きの襖が思いがけない位置にあって、踵が当たる。あっ、と思った時には、すでにバランスを崩した体が後ろに倒れようとしていた。
受け身を取らねば。背中からこの勢いで倒れたら流石に痛い。手を。でも不審者から目を逸らすわけにはいかない。大して足の速くない生物が外敵に対して背中を見せるのは、自然界ではタブーもタブー。
思考ばかりが高速回転して、体は凍りついたように動かない。ああ、もう何をするにも間に合わない。そのタイミングになって、右手をぐんと引かれて変な角度で停止した。
「危ねぇな。ちゃんと周りを見ろ」
鴨居を背景に、少し焦った様子の男がこちらを見下ろす。すごい力で腕を引かれ、身を引いた男が鴨居に後ろ頭をぶつけて「いてっ!」と声を上げる。敷居の上に立たされると、煙のような匂いが鼻の奥をついた。
「お前の言うとおり、俺はお化け……さしずめ幽霊ってやつだが、こうしてモノに触れられるし話もできるし、転びそうな女を前に慌てて飛び出して手を掴むくらいの良心はある。だから怯えるな。大丈夫だ。俺はお前を傷つけない」
両膝に手を置き、こちらに視線を合わせて神妙な面持ちで話す。男ーーーー多々良益臣の低い声に、凪はようやく冷静さを取り戻した。
途端に恥ずかしくなってくる。未だ状況は混沌の中だが、それにしてもパニックになりすぎていたと自分でもわかる。
「ただ、その懐中時計を捨てないでほしいだけなんだ。それが離れると、俺は消えちまう。どこかに置いてくれるだけでいいんだ。俺がいるのが目障りだってんなら、見えないようになれるから」
「……本当に幽霊?」
「……ああ。残念ながら」
「幽霊なんてありえない」
「俺もそう思う。だが、俺は俺で、今の俺の状況は『幽霊』以外の言葉で表現できない」
「本当に死んだの?」
「ああ。あの時のことは、今でも鮮明に覚えている」
「どうやって死んだの?」
「……お前が知るようなことじゃない。今を生きるお前は……知らなくていい」
その言葉に、妙にストンと全て納得してしまう自分がいた。彼の含みのある言い方は、つまりこういうことだろう。
惨たらしい死だった。苦しみに満ちた最期だった。その悲惨な光景は、平和な時代しか知らない人間にはショックすぎるし、平和な時代を生きるには不要な痛みだ。
何だかついさっきまであれこれ警戒していたのが馬鹿らしくなって、凪はスマホの電話アプリと閉じてポケットにしまった。畳を見下ろし少し考えて、益臣に向き直り、左手を前へ。懐中時計を差し出す。
「別にここに置けないってわけじゃないし、ゴミじゃないなら捨てない。好きなところに置きなよ」
言うと、益臣は切れ長の目を驚いたように見開いて、それから目尻を下げて「ありがとう」と言った。懐中時計を受け取る。瞬間、彼の体が炎に包まれた。
「はぁ!?」
何が起きたのか理解できない。けれど、目の前に炎が上がっていることだけは確かだ。急いで消化器を取りに台所へ行こうとしたら、「大丈夫だ」と少し苦しげな益臣の声がした。
「この炎は他に燃え移ることはない」
「何言ってんの燃え移らない炎なんかあるわけないでしょ!」
「あるんだ。これは……言うなれば俺の記憶だ」
「記憶?」
「どうにも……この懐中時計は俺の存在を繋ぎ止めるために機能しているから離れることができないが、かと言って近づきすぎると“最期”に引っ張られるらしい」
「どういうこと!」
「時計に触れると出る仕組みの炎ってことだ」
「何、それ」
「離れては生きられないが、近づきすぎても良くない。……人間関係と同じだな」
炎に包まれた状態で益臣が移動する。確かに、彼は動いた後の畳には焦げ一つない。彼が手近な棚に時計を置くと、炎は徐々に弱まりーーーー
「……こんな感じで、俺は死んだ」
炎の中にあった益臣は、おそらく現実の人体が炎の中に置かれた状態と同じ変化を遂げていた。衣服が溶けて皮膚に張り付き、その皮膚は黒く爛れて変な液体を垂れ流し、焼け落ちた頬肉の向こうに白い歯が覗いて。
焼死体が、バツが悪そうに言って後ろ頭を掻いている。そんな非科学的かつ非現実的な状況を目の当たりにして、凪は気絶して今度こそ盛大に倒れて後頭部を畳に打ちつけた。
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