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できるけど疲れることをやり続けること

私はオオカミなので、通勤バスの前に座る男の首を一発で噛み切ることができる。
でもやらない。できるけれど、やらない。
私はオオカミなので、問題を先送りしてやり過ごそうとする上司の頭を噛み砕くことができる。
でもやらない。できるけれど、やらない。

『できる』ということは、『やらなければならない』に直結しない。
できるけれどやってはならないことがある。できるけれど、やったところで何の利益にもならないことがある。できるけれど、そのことを隠しておいたことがいい時がある。

私はオオカミなので、電話に出ることが苦手だ。
それは仕事に限ったことではない。プライベートの電話さえ、出る決意を固める間に着信が切れるのはよくある話。
顔の見えない相手と、顔が見えなまま話をするのが苦手だ。顔が見えないから、今私に呼びかけている人が笑っているのか泣いているのか、怒っているのかわからない。こちらの用意のないまま、その人の感情をぶつけられるのが恐ろしくて仕方がない。地平線の向こうからの弾道ミサイルのように、見えない何かが飛んでくるのが怖い。
カード会社からの不在着信履歴がもう2件溜まっているけれど、次の着信も私はきっと出られないだろう。アプリで確認した利用履歴におかしな部分はないし、支払いはきっちりしているし、ペンディングになっている案件も存在しないから。

私は電話に出るのが苦手だけど、できないわけではない。
仕事では毎日電話を取っているし、誰かがしでかしたミスへの怒りを、受話器を取った瞬間浴びせかけられることは日常茶飯事だ。
そんな感情の濁流が私は苦手で仕方がないけれど、仕事だから浴びている。苦手だけど、やっている。

そんなことを毎日ひたすら繰り返して、ふとした瞬間、全てを投げ捨ててしまいたい衝動に駆られる時がある。
できるけれど疲れることを、できるから大丈夫だと続けていく。その先に何があるのか、ある日突然不安に感じるからだ。そこには多分、何もない。成長も慣れもない。ずっと私は電話が苦手なまま、ただ受話器を取って言葉を発するだけの簡単な作業に膨大な疲労を感じて生きていくことがわかっているから、いっそ全てやめてしまいたいと思うのだ。
これまでの人生で数えきれない数の電話を取って経験を積んでいるはずなのに、今も昔も疲労は変わらないから。

誰にでも苦手なことはある。
同じ生物種の中においても、個体差による差異は大きい。年齢、性別、生きてきた環境、生きられなかった環境。さまざまな因子に影響され、私たちは別の存在として生きている。
けれど、周りから許容される『苦手』は、その内容によって明確に線引きをされているようだ。
「私は文系だから数字が苦手なの」と言って私にエクセルの数式を組むことを頼んでくる人の『苦手』は許容されるが、「私、電話が苦手なので」と私が言ったところで代わりに電話に出てくれる人はいない。

ここに見る差は、おそらく、その『苦手』を共有する人の数で決まっている。
数字が苦手な文系の人間はたくさんいるから、仕方がない。電話は誰でもできることだから、苦手と言うと甘えになる。だから私は電話に出なければならない。文系の人が因数分解を身につけることと同じくらいの苦痛を感じていても、それは『苦手』ではなく『甘え』だから。
永遠に、私は、電話に出る。

私には、『ただできるだけ』のことがある。
自慢の牙で生き物の首筋を掻き切ること、強靭な顎で生き物の頭を噛み砕くこと、それから、仕組みの問題や無駄を見つけてスムーズに進むような方法を見つけること。
できるけれど、私はやらない。電話に出ることで力を消耗しすぎて、他のことをしようと思えないから。求められているわけでもないし。

もしも、誰もが『できるけれど疲れること』をやらずに『ただできるだけ』のことだけをできる世界があったなら、そこではきっと誰も疲れない。疲れがないから、色々なことができる。今よりきっと、たくさんのことができる。
そのもしもの世界でも、私は通勤バスの前に座る男の首を噛み切ったりしないし、問題を先送りしてやり過ごそうとする上司の頭を噛み砕くこともしないだろう。
でも、仕組みの問題や無駄を見つけてスムーズに進むような方法を見つけることは、やるかもしれない。
私はそれが『できる』し、『得意』だし、『やりたい』と思うから。

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