創作謡曲『修那(しゅな)羅(ら)
季 秋
所 信州東筑摩郡(旧)坂井村(現筑北村)
梗概
父との争いが元で出家した旅僧が年月を経て思い直し、詫びをして和解しようと帰郷する。途中修那羅の霊地に立ち寄り、安宮神社の宮司に消息を聞くと、父は先ごろ死亡したと言う。
悲しみをこらえながらも供養をしているところに、修那羅の霊力によってこの地に囲われ七歳の童女のまま二百年、獣と棲んでいる麻績の童女が現れてこの山の四季を語る。
また、其の近くに見える冠(かむり)着(き)山は木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の御姉であらせられる岩永姫が心を澄まして昇天したところである。あなたも其の処で月の光に心を晒し、悲しみを洗い流せと言う。
旅僧の心が静まったのを見て、
「眼裏に塵あって三界(さんがい)窄(すぼ)く、心頭無事(むじ)にして一床寛し。なおなお心を澄まし候へ」と諭し、にわかに起こる風に乗って童女はむささびと共に去っていった。
用語解説
シテ 主役のこと
ワキ 脇役であるが、物語の起承転結を促す重要な役割を持つ。 単なる 脇役ではない。
詞 言葉で抑揚に決まりがあって、観客に対して名乗り、登場人物間で問答がある。
道行 旅の途中、または目的地への旅と到着を述べ、導入部分になる。
地謡 役のせりふの続きやナレーションの部分を謡う。洋楽に倣えば、シテとワキは独唱、地謡は合唱部分と言えようか。
謡曲修那(しゅな)羅(ら)
ワキ 望むは遠き故郷の、望むは遠き故郷の、夢にもたどる家路かな。
詞 これは一所不住の僧にて候。
我この程は関東の方に候らひしが、あまりに故郷心もとなく候ほどに、ひとたびは帰郷仕(つかまつ)らばやと存じ候。
道行 信濃なる浅間の嶽に立つ煙。浅間の嶽に立つ煙。下る峠や歩も軽く、軽井沢過ぎ小諸過ぎ、行き来の人の足しげき、滋野の里は秋深し。上田の宿を右に見て、登る青木の山すそを、廻りて登る山道は、坂井村なる村境、山の峰なる船窪や、修那羅の霊地につきにけり、修那羅の霊地につきにけり。
ワキ 急ぎ候ほどに、これははや修那羅の霊地に着きて候。ここ船(ふな)窪(くぼ)は、
地謡 昔修那羅大天武が、悩める人を救ひ、日照りに雨を降らせ、その通力を広く衆生に施し給ひし霊地なり。
修那羅大天武を祭りし安宮神社の辺りには、修那羅の徳を慕ひし人の、寄進せる石神石仏、無慮壱千百体余り。雑木林の踏み分け径に沿ひて並びしありさまは、憂き世を遠く心澄み、安らぎ深きところなり。
ワキ 安宮神社に詣で候べし。宮司は旧知の者なれば、我が同胞(はらから)の消息などを、訊ねばやと存じ候。
ワキ 如何に案内申し候。
ツレ 誰にてわたり候ぞ。や、これは七郎殿。右衛門殿の葬儀に間に合わず、初七日にお帰りか。
ワキ なに、我が父は亡しくなりて候とや。
ツレ 言語道断、親の死も知らざりしか。
さやうな不孝者の顔、見るも穢らはしや。そうそうに立ち去り候らえ。
ワキ や、あら悲しや。
我俗にてありしとき、ふとしたことより争ひて、かようの姿となりて候。年月もはや過ぎて候ほどに、いかようにも詫び、和解せんとて来たりしものを今ははや、積もる想ひをいかにせん。
積もる想ひをいかにせん。
地謡 今は嘆くとも、甲斐なきことなれば、供養をこそはなすべしと。
木漏れ日のもとに佇む御仏に、
落ち葉に坐して手を合わせ、菩提をいざや弔はん、菩提をいざや弔はん。
ワキ 夕暮れ近く日もかげりて候。
今宵一夜はこの所にて、なほなほ菩提を弔ひ申し候はん。
若我成仏十方世界、
地謡 念仏衆生摂取不捨。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。廻る因果を御仏に、託して後生を願うなり。
シテ いかに御僧。
ここは修那羅の聖地にて候。
此の処にて御弔ひあらば、亡者の成仏疑ひなし。
なおなお念仏称名を続け候へ。
ワキ あら不思議や。薄暗き樹間に、仄(ほの)かに見ゆるは、獣にてもあらず、幼き人の姿なり。
我に言葉をかくるぞや。
シテ 我はもと麻績の長(おさ)の娘。
麻績の童女と申しし者にて候。
ワキ かの高麗(こま)王の御裔(みすえ)にて候麻績の長者の娘子か。
シテ さん候七歳の春に病を得て亡(むな)しくなりて候。
吾が母は悲しみのあまり、修那羅に請ひて我を甦へらせんとす。
修那羅ついには請(こい)に負け、結界を結びて我を囲ひ、輪廻の外に留め置きぬ。
夜毎に我は母の夢に遊び、何時しか過ぎし幾年月。
ワキ 人の命のはかなさよ。
シテ 母も亡しくなりしかば、
ワキ 悲しむ人の夢に出で、
シテ 我人ともに慰めの、
ワキ 涙は尽きぬ憂き世かな。
地謡 人の涙の湖の、面に映して我が姿、仄(ほの)かにこそは見ゆるなれ、仄かにこそは見ゆるなれ。
修那羅世を去るその際に、我を伴い逝かんとす。
シテ 我はそのころ山に慣れ、
地謡 兎と駈けり栗鼠と跳び、むささびに乗りて天(あま)駆(がけ)り、遊び暮らして日を送る。
誘(いざない)いを拒みていつしかこの山に、棲まいてすでに二百年。
シテ 春は楽しや人来る。
地謡 桜の咲けば祭礼の、笛や太鼓に誘はれて、着飾る人の行き来する。
群れゐる人の中にして、母に相似し面影を、探し歩くも悲しけれ。
シテ 夏鶯の来り鳴き、蝙蝠飛び交う星の下、
地謡 短き夏の過ぎしかば、秋は秋とて秋祭り。
シテ 実りを言(こと)祝(ほぐ)ぐ人の群れ、修那羅にこそは詣でけれ。
地謡 秋風の梢を渡るその音は、瀬音に似たりざわざわと。
むささびの背に打ち乗りて、天空高く飛び行けば、眼下に横たふ千曲川、布引山より善光寺、銀蛇を月に横たへて。
シテ 西南遥かに飛騨の山。
地謡 南より、乗鞍焼岳穂高岳、峰のみ覗く槍ケ岳、大天井に飛ぶ燕、餓鬼岳唐沢鳩の峰、白沢天狗に爺が岳、鹿島槍から五龍岳、白馬に至る雪の峰。
シテ 間(あい)に岩(いわ)殿(どの)聖山(ひじりやま)。
地謡 北に戸隠東を見れば、菅平から志賀の山、高き峰峰立ち並び、
シテ 南には、
地謡 荒船妙義浅間山、煙に咽び(むせ)たゆたへば、田毎の月こそ爽(さやか)なれ。
冬来りなばむささびの、巣の内に寝て冬を越す。
シテ 信濃の冬の長ければ、
地謡 降り積む雪の丈(じょう)を超へ。
何時まで続く吹雪ぞと、むささび兄弟姉妹らと、身を寄せ合ひつ寒に耐へ、ただひたすらに春を待つ。
ある日なだれの鳴り響き、春遠からじぞと喜びて、外に出づれば、
シテ 雪に照る陽の眩(まばゆ)くて、
地謡 木々の根方は下萌ゆる。
遊び暮らして二百年。下界の様は変るとも、月の影こそ久しけれ。
シテ や、月こそ出でて候へ。
地謡 ここは月の名所と名も高き、かの姨捨(おばすて)の尾根続き、山高ければ気の澄みて、眩ゆきまでに映ゆるなり、眩ゆきまでに映ゆるなり。
シテ 其処に見ゆるは冠(かむり)着(き)山
地謡 昔、木花咲耶姫の御姉姫、岩永姫と申しし御方、姿かたちの恐ろしげなるに、心栄えも直(すぐ)ならず。老いてはその身を省みて、この山頂の岩に坐す。
月の光に洗はれていつしか心澄みわたり、つひにその身は岩となり、魂魄は神となりて昇天せりといふ。
シテ 御僧もひたすら月光に心を晒し候へ。
ワキ 南無帰命月天子、本地大勢至、一念弥陀佛即滅無量、
地謡 何時しか月は宙天に懸かり、煌煌として星の光を奪ふ。
ワキ 月光に身を晒し、称名回向のひとときに、ようよう心も静まりて候。
シテ 眼裏に塵あって三界窄(すぼ)く、心頭無事(むじ)にして一床寛しと申すことあり。なほなほ心を澄まし候へ。
ワキ 承って候。
地謡 睦まじかりし日のことども次つぎと、思ひ出されて眼(まな)裏(うら)の父の慈顔ぞ懐かしき。
ワキ 不思議なる仏縁にて、有り難きいっときを賜り候。
ワキ や、にわかに起こる風音の、
シテ 遠き方より近きまで、
ワキ 落ち葉巻き上げ、
シテ 裸木の枝打ち合わせざわざわと、
ワキ 山一面に立ち騒ぐ。
シテ むささびの太郎次郎。風こそ来たれり、いざ空飛ぼうよ。
地謡 一群のむささび現れて、ひときわ優れて大きなるに、童女は飛び乗りたちまちに、吹き渡る疾風にうち乗りて峪伝ひ、ふもとに向かうと見えたりしが、また翻へり川中島の天高く、戸隠山の峰さして、夢か現か幻か、幽(かす)かになりて失せにけり、幽かになりて失せにけり。
修那羅について
鳴沢 湧
私の生家は長野県東筑摩郡筑北村である。この地域はもと筑北五箇村といわれ、五つの村が山襞の中に連なっていた。
南から本城村、坂北村、麻績(おみ)村、日向村、坂井村と連なり、五箇村が山によって外から孤立していた。
先に麻績村と日向村が合併して麻績村になった。他の三か村が合併して筑北村になった。
麻績村は百済かあるいは高麗からの渡来人、麻績氏が住み着いて作った村と言われているが本当のことは分からない。
『日本書紀』によれば、麻績(おみの)王(おうきみ)は日本の皇族で三位の位にあった。皇族と説明はあるが詳しいことは記されていないらしい。
天武四年(六七五)四月、罪により因幡に流される。同時に一子は伊豆島(伊豆大島か)、別の一子は血鹿(ちか)の島(長崎県の五島列島)に流されたという。
如何なる罪を犯したかなど、詳しいことは不明である。この人を詠んだ歌が万葉集に載っている。
「うちそを麻績の王(おうきみ) 海人(あま)なれや伊(い)良(ら)虞(ご)が島の玉(たま)藻(も)刈ります」
麻績氏というのは麻織物の技術を日本に伝えた氏族ともいわれる。善光寺の開基にも大きく関わった。蘇我、物部の戦の中で仏像を拾い長野市にお祀りした本多善光という人も麻績の一族だという。善光寺というのはこの本多善光の名に由来する。
旧坂井村と青木村の境の修那(しゅな)羅(ら)峠は、山の峰付近にくぼ地があって舟窪と呼ばれている。この船窪に修那羅大天武を祀った安宮神社がある。安宮神社の裏の雑木林に一千百体を越える石仏、石神像がある。
安宮神社、通称「しょなら様」へ祖父の葬式の帰りに始めて寄ってみた。昭和四十九年十一月初旬のことであった。
「しょなら様」という生き仏の話は父からも祖父からも聞いた覚えがある。「しょなら様」は修那羅様が訛ったもので、ここを訪れるまで「荒唐無稽な昔話」としか思っていなかった。
改めて父に聞くと、「しょなら様は生神様で、この方は寛政七年生まれ明治五年没と伝えられ、慶応初年から没せられるまで、日照りのときに雨を降らせたり、病気を直したりして、この辺の人々を助けてくださったのだという。
佐久間象山との親交があったという話もある。私の家の何代か前の爺様と親しくて、遊びにきては幾日でも泊り込んでいたものだそうな。飯時になると、
『今日は誰と誰が影膳を供えている。誰それはいつも焼餅(おやき)を供えてくれるが、わしは焼餅は嫌いだよ』と、苦笑いしていたそうな」
焼餅の嫌いな生き神様というのは面白い。
昭和六十三年六月、生家へ行った帰りにまた立ち寄った。
前回秋、葉を落とした雑木林の中で見た石仏の表情と、六月の木下闇の中で見る石像の表情の違いを強調して『石仏の山』という文章を書いた。
そのころ入会して間もない栃木県広告美術協同組合の、年一回発行される機関紙に投稿したところ大変好評で、そのときの編集委員長ほか組合幹部の知遇を得るきっかけになった。
この文章の中で、
「いまここで『「のうのう」と声をかけてくるシテがいるとしたら、どんな面をつけているだろう。小面(こおもて)(少女の面)か、いやそれでは美しすぎる。ばら色に頬を染めた童女の面はないものだろうか」と書いた。
そのころまだ謡曲を習い始めたばかりだった私の胸に、いつか自分で曲を書いてみたい、という想いが芽生えた。いつかはという想いはいつも胸のうちにあった。あれからなんと十五年経ったのだ。
平成十五年の春のある日、未明に目が覚めて、妄想に身をゆだねているうちにふと思った。
「難しいといって手を付けなければいつまでたってもできはしない。今から始めてみよう」そう思ってパソコンに向かったのは四時ころだった。
書き始めると思ったよりも捗った。八時ころにはひとまず書き上げて、多少の推敲をして出来上がったと思った。
候文の文章は読みなれているが、書いたのは初めてだった。自信がないので、謡曲の先輩で俳句のグループを主宰している方に見ていただいた。数箇所のご指摘をいただいて、
「こんな才能があるとは知らなかった」とお褒めいただいたが、どうも何かもの足りず、別の方にメールでお願いして見ていただいた。その方からは貴重な示唆をいただいた。
家内に、これではあなたの創作ではなくあの方との合作ねと、笑われたくらいだった。
その後も手を入れて、私の力ではこの辺が限度かと思うようになった。次は曲をつけて謡ってみたい。能楽師に見ていただくのは恥ずかしいし、自分でやってみても本物にはならないだろうが自分なりにやるしかない。これからが難しい。 (了)時の間違いなど直しました。
能舞台の旅僧
謡曲の部分文字の揃えが、うまくできませんでした。なおしようがないようです。