一年経った

 義母を引き取って介護しました。妻と助け合いながら一年と九か月、妻と二人の試練の日々でした。
 世の中には十年も二十年も続けている人がいると言う事は知っていますが、やはり試練の日々だった、と思います。              これを書いたのは平成18年でした。

義母を連れてきて十月十日で丸一年経った。
 昨年九月五日に義父が亡くなり、義弟があまり大変そうなので義母を引き取ることにした。
一箇月ほど、それまで他人ごとだつた介護について心の準備をして、十月十日に妻と二人で迎えに行った。
 坂の町小諸市の市街より、かなり坂道を登ったところの老人保健施設から母を引き取って連れ戻った。
 義弟は義母が私達のところに来るのを納得していると言ったが義母は、
「行かないよ」と、金切り声を上げて拒んだ。
認知症が進んでから昔とは変わって低い静かな声で話すようになっていた義母がこんな声で拒むとは思わなかった。
嫌だと言われても義弟との間で話がついていたことであった。いまさら止めるわけにはいかなかった。私は涙を堪えながら車椅子を押した。
「連れ出さないで」と大きな声で訴える義母をしやにむに車に押し込んで、妻が脇から抱きかかえて出発した。
 軽井沢あたりのコンビニでお茶を買い義母に勧めたのだが飲もうとはしなかった。再三勧めると、
「いらないったらいらないっ」と、大変な不機嫌だった。
 しかしその後は、一言も文句を言わなかった。私の家に来てからも不平不満は一度も言ったことがない。
 認知症のために表現する能力を失っているようにさえみえる。
『あの時のあの声』は義母にとって心底、死に物狂いの訴えだったのだろう。
 此処に来てからは始終上機嫌で食事の時に「まあまあこんなにいろいろ」と、世辞を言っているときもあった。
 今年の八月下旬までは何でも食べ、特に好きなのはバナナ、さつまいも、饅頭、果物など何でも食べられたように思う。八月未近くになって急に何も食べられなくなって医師に相談すると、
「最後は自宅で看とりますか。それとも病院へ入れますか。病院なら栄養を摂らせる方法はいくらでもあります。しかしそれで生きていることになりますか」と言われて、大変なショックを受けた。
 ケアマネージャに相談すると、
「そこまで飛躍することはない。食べやすいように食べ物をミキサーにかけてあげなさい」と教えてくれた。
 ご飯も味噌汁も煮物も全てミキサーにかけて、おいしくもなさそうになったものを口に運んであげると喜んで食べるようになった。
 食べられなくなって、一日か二日は顔色が悪く見るからに弱っていたのが、このごろ顔色はすっかり回復した。
 以前は車椅子にしやっきり座っていて、お相手をしていないと、
「さて」とか、「さあ」と言って、それでも相手できないでいると、
「便所へでも行きやすか」と言う。
 便所へと言うのを放っておくわけにもいかず、連れて行っても何も出ないときが多い。特に夕方は十分おきに十回くらいも行かされる事になる。
 妻が考えて、花札やトランプ、カルタなどを出してやると、並べなおしてみたりしている。
 それ以来、
「さて」といわれるとカルタか百人一首をするようになった。
 このごろは、しりを前にずらして斜めに反り返って、だらしない座り方をするようになって、居眠りをすることが多くなった。
 私は前立腺肥大のため、夜小用に二度か三度起きる。昼間家事が増えた妻よりも私が夜のおむつ交換をすることにしている。
 一週間ほど前の夜中、おむつの交換をしていると妻が起きてきて、
「悪いわね、貴方にこんなことをさせて」という。
「おふくろ(私の実母)が祖父母の介護をしていたころ、お母さん(義母)と介護のことを話したことがあったよ」というと妻は、
「お母さんへの想いがあるから貴方にはこんなことまでできるのね」と言って泣いた。
 だが、そのときの話しはそんなことではなかった。
 私が、
「あんなにいじめられたのに、今は下の始末までさせられている」と母に対して意地の悪かった祖父母の悪口を言うと、
「順繰りなのに貴方はそんなことを言う」と、義母は私を非難したのだった。
 私が義母の世話をするのはそんなことではない。妻の母であり、子の大事なお祖母ちやんだからである。
 義父母は私たちの子に優しかった。義父母にとっては初孫だったこともあつて、とても可愛がってくれた。
 また、私は義母に、
「貴方は娘に着物一枚買ってくれたことがないではないか」
と責められたことがあった。夫婦で諦曲の稽古を続けてきて冗談に、
「家一軒分くらいはつぎ込んだ」と言ったくらい費用がかかった。
 資産家の多い謡曲の仲間に遅れをとらないほどのことはできなかった。そのことにたいする償いの気持ちもなくはない。
 でもそんなことは瑣末なことで、最も大きな理由はこの人の晩年を不幸にしたくない。幸せな最後を見届けてやりたいからである。
 老人ホームで行事の時に撮った写真を見て、
「このお母さんの車椅子を押している人は誰ですか」と訊くと、
「さあ。○○さんかな」と義父の名を言う。主治医の先生に、
「今誰と一緒にいるの」と訊かれると、
「○○子と湧」
「誰の家にいるの」
「さあ。○○さんかな」と義父の名を言う。
 幸せだったのだと思う。
 私の実母は祖父(母の実父)の話しかしなかった。父のことを聞いても夫婦の情愛など感じられず、抑圧者としての父の話だった。
 幸せだった義母の晩年を惨めなものにしてはいけない。嫌なことを一言も言わない。いつも、「お世話になりやす」「ありがとう」を繰り返している義母である。
 しかも義母が来たくて此処に来たのではない。私らが相談して、嫌がる義母を無理やり連れてきたのである。
 正直言って、六十六歳の妻と七十一歳の私が九十三歳要介護度四の義母を介護するのは楽ではない。
 デイサービスとショートステイで息抜きをし、周りに助けられて、ようやく続けていられる状態である。
 しかし私等の体力気力の続く限り最後まで責任をもって看取りたいと思う。
              平成十八年十月

 追記
 九月末から仕事が忙しくなって、十月九日に一段落した。さらに他にも小さな仕事が重なって、月半ばには疲れきってしまった。
 私が忙しい時には妻が一人で母を見るようになる。したがって、私が疲れているときには妻も疲れきっている。
 疲れて、気持ちが落ち込んで、
「いつまでこんなことを続けなければならないのか」と、泣きたいような気分を何とか振り切ろうと書いてみたのがこの文章であった。
 振り返ってみて、
『母には責任がない、私らの問題だ』
 ということを再確認したかった。
 そうでもしなければ続けられないと思うほど辛くなつていた。
 母に十月十七日から二十一日まで四泊五日のショートステイに行ってもらった。これが本当にありがたかつた。
 五日の間に身体を休め、気を取り直すことができた。母に当り散らすようなことが、ないうちで良かつた、とつくづく思う。
「行かない」
 という母を無理に連れてきたのに、嫌な顔などしたら一生後悔しなければならない。
 幸い気を取り直すことができて、デイサービスとショートステイに支えられながら何とか過している今日この頃である。
                十一月六日

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