山滴る
JR中央線塩尻と信越本線篠ノ井とを結ぶ中央東線に坂北という駅がある。私の生家は長野市と松本市の中間で、坂北駅のある村である。村の名を筑北村という。
村の北西に聖(ひじり)山という一四〇〇メートルくらいの山がある。聖岳とは違う、長野市の南側にある山だ。小学校のころ「この山は死火山」と聞かされていたが、現在は死火山という言葉は使われないらしい。
山頂には大きな火口跡があり、あまりに火口跡が大きいので山全体が台形に見える。広い頂上の火口跡から南西に下がった所には聖湖と呼ばれる湖がある。これは火口湖である。
火口湖の辺りが稜線でそれを越えて下れば月の名所姨捨である。
高校生のころ私が登った頂上の火口跡辺りに水はなく、カラ松が生えていて地面には大きな黒い蟻が無数に動き回っていた。立ち止まれば蟻が足に登って来そうで、避けて通った。
子供のころ畑の桃の木に登って、祖母が「兵隊蟻」と呼ぶ、同じくらいの大きさの数十匹の蟻に食いつかれた。泣きわめいて祖母と母、叔母の三人に、服もシャツも、パンツまで脱がされて手で叩いて蟻を落としてもらった。
蟻は怖い。触覚まで測れば二センチもありそうな、あの時の兵隊蟻は飴色だったが、ここの蟻は真っ黒だった。
急傾斜の山道を下ると少し緩くなった傾斜面には畑があった。畑と山との境には跨げるくらいの小川があって、冷たい澄み切った水が音を立てて流れていた。急流で大変な流量である。大きな水車でも回りそうに思えた。
このような小さな流れがたくさんあって、かなりの棚田と畑があった。
火山の麓なのに、切り立った岩は砂岩である。夏には湿り気もないところに、冬には大きな氷柱が出来る。氷柱が頭に落ちれば落命間違いなしである。危なくて近寄れないようなところが乾くと黄白色の粉末が析出する。これはミョウバンで、皮をなめすのに使うという事だ。 俯瞰すれば、たくさんの山がごちゃごちゃと押し合っていて、その山間(やまあい)に細い流れがあり、集まって川になっている。
生家の近くで、東条(ひがしじょう)川と麻績(おみ)川が落ち合って五キロほど下ると犀(さい)川に合流する。この川で三つ重ねの重箱くらいの石を拾った。浅利に似た貝の化石の間が岩で固められていたが岩が脆く、化石を取る事が出来た。
祖父の話では、こんな山の中の川でも昔は鮭が登って来たという。私の子どものころには犀川に発電所のダムがいくつも出来ていたので、夢のような話だった。
国民学校初等科(今の小学校)三年生ころだったと思う。一級上の子らが先立ちで下級生は二年生まで二〇人くらい、学校帰りに麻績川で泳ぎ、そのまま麻績川に注ぐ谷をさかのぼった。
全員が素っ裸でパンツも履いていなかった。狭い谷川が面白くて時間のたつのも忘れていたが、突然雷が鳴りだした。山の雷鳴は周囲の山々に響き合い「カラカラ」と乾いた音がして恐ろしい。
私たちは臍をしっかり押さえて谷を駆け下った。三〇〇メートルくらいの距離だったが、恐怖に震えながら走った。
谷川にいるうちに激しい雷雨で山砂を含んだ急流が、膝下まで増水すれば足を攫(さら)われる。臍は取られなくても流されれば命が危ない。
里山も谷川も遊ぶには面白いが、それは危険と背中合わせである。わずか三十戸ほどの集落で、私が子供のころ一人の小さな子が崖から落ちて死んだ。もう一人が井戸に落ちて死んだ。
どこの家も子沢山だった。親たちも生きるのに精いっぱいで目が届かなかった。
山も水も、恵みでもあり、災いでもあった。
二〇一七年七月 記
題「水」