夢を見て泣いた

 こどものころ、夢を見て泣いたのはいつのことだっただろうか。もう、何十年も昔のことになってしまった。
私は今年58歳、あと2月で 59歳になる。
 先夜、悲しい夢を見て泣いた。
 目覚めてからもしばらくは涙が止まらなかった。あれから幾日もたつのに、夢の悲しさが忘れられず、操り返し、繰り返し夢の意味を考えている。
 ことの始まりは、道を歩いている私のそばにトラックが寄ってきたので、路肩に避けたのである。よけているのにトラックからおりた運転手が、私が見えないかのように大きな鉄材を私の頭の上に降ろそうとするので、土手を駆けおりて沼の縁まで逃げたのである。
 沼のふちから見上げると、道路は三方の高いところに、コの字に通っていた。
 私は道路に戻らなければならない。
 沼のふちを廻り、向こう側に渡った。そこには、フォークリフトで貨物を積み降ろしする時に使用する、パレットが積んであった。
 パレットに腰を掛けていると、70年配の婦人が
「おあがりなさい」
 と言って、茶碗の底にほんのひと口残ったラーメンをくれたので、私はひとくちに飲み込んでしまった。気がつくと、さっきまでは確かに一人だったのに、私は妻を背負っているのである。 
「ごめん、一人で食べてしまった」
 私は泣きながら妻に謝った。
「いいのよ」
 と言う妻を背に負いながら、私は歩き始めた。
 二歩か三歩あるいて私は足を滑らせて転倒した。 
「ごめん、痛かったろう」
 泣き顔の妻を再び背にして、私はまた歩き始めた。
 私が右へ寄っている間に、左側にパレットが積み重ねられ、左に寄ると右に積まれる。
 右へ左ヘ、往き来している内にだんだん高いところへ昇って行き、いつかは道路へ出られるのである。
 私はもうけっして転ぶまいと、はだしの親指と小指を力いっぱい開いて、パレットの面を一足ごとに足で掴むようにして歩いていた。しかし、道は高いところにあって、いつまで歩いても近付くことはできなかった。私の意識は唯、転ばないように歩くことだけに集中していた。
 いつの間にか私は、思考力も判断力も失って唯、転ばないように歩くことしか意識になくなっていた。
  呆(ほう)けてしまった私が、足の萎えた妻を背負って歩いているのであった。
 腰は折れそうに痛み、痛む足を引きずりながらも、一足、ひとあしに渾身の力をこめて歩き続けなければならなかった。つらく悲しい作業のはずなのに、それをつらいとも悲しいとも思わなかった。
 背に負うた妻が泣き出した。
 妻は足は萎えていても、気はしっかりしていて、この絶望的な状況を悲しんでいるのである。
 悲痛な妻の泣き声、首筋に落ちる涙が思考力も判断力も、感情さえもなくしてしまった私の心に、悲しみだけを蘇らせた。
 なにが悲しいのかも分からずに、背中の妻から伝わってくる悲しみに、私は声を上げて泣いた。
 泣きながらなおも私は歩き続けなければならなかった。
 気がついてみると、私も妻も年老いて、皮膚はたるみ、深いしわが寄り九十歳くらいに見えた。
 灰色の髪をぼさぼさと垂らし、ぼろを着た私が、同じように惨めな姿の妻を背負って泣きながら歩き続けていたのである。
 際限もなく続く歩行、妻の悲しみ以外には感じることもなく、歩く目的も状況もまったく分からなくなってしまった私を見ている、別の意識があった。
 私の、体から離れた別の意識がこの「意識の落し穴」に陥ってしまった私を見ているのを感じたのである。
 この意識がだんだんはっきりしてきて、私にはこれが夢であることが分った。
 夢であることが分かってからもしばらくは、半睡半覚のなかで夢の中の自分の姿を見つめていた。目覚めた時、頬から耳、枕まで涙でびっしょり濡れていた。覚めてからもしばらくは涙が止まらなかった。        

                       1994年6月3日

 この年は、平成6年、細川護熙内閣総理大臣が辞職して、羽田孜内閣が成立したが僅か2か月で総辞職した。自民、社会、さきがけの3党連立村山富市内閣が成立した年だった。
 またこの年には松本サリン事件が起きた年でもあった。

そのころ私自身に何があったのか、思い当たることがない。漠然とした不安。それがなにか、掴めないだけに猶更切なかった。そういう不定愁訴に悩まされてた。いや悩まされていなかった時の方が少なかった年だったとと思う。
                       2021年5月11日

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