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逍遥

 街を歩いている私の目線の先には煙草を咥えたおじさんが居たので、私は絶対にその煙草の煙を吸うまいと硬く心に決めて、今来た道を引き返し、横断歩道を渡って反対側の歩道を歩いた。それを見ていた人が居れば、私のことを変なやつだと思うだろうが、煙草の煙を吸うくらいなら多少の回り道をしたり変なやつだと思われたほうがましだと、最近の私は思うようになっていた。
 そんなふうに思うようになったのは一体いつからだろう。私の記憶が正しければ、昔はそんなことはなかったし、友人はよく私の隣で煙草を吹かしていた。もちろん気分のいいものではなかったが、それを避けたり禁じたりするようなこともなかった。きっと私はどこかの時点から、もともと己が持ち合わせていた神経質が肥大し、些細なことに対しても塞ぎ込んだり避けたり弾いたりするようになっていったのだと思う。そしてそれが行き過ぎた挙げ句に、私は友人と呼べる人を次から次へと失っていってしまったのだった。
 一人は、彼の態度に嫌気が差して私の方から遠ざかり(あるいは彼のほうがすでに私から遠ざかっていたのかもしれないが)、もう一人は私から連絡をするのが億劫になって連絡することをやめたら、そこからやり取りをしたり会ったりすることもなくなり、そして最後の一人は何年か前に久しぶりに会った後遠い田舎に帰り(どこだったっけ?)、それから一切接触をしていない。
 そういうわけで私の周りから、関わりを持っていた友人がいつの間にかいなくなってしまったのである。全くのゼロといっていい。
 思い返してみれば、私が神経症的で、孤独で、誰とも合わなくなったのは、2年前に世界的な感染症が流行し始めた頃からだった。私は最初の頃は大して気にもしていなかったのだが、次第にそれが身近なものへと姿を変え、足音を立てながらこちらに近づいてくるのを感じ、その未知のウイルスに怯え始めた。その辺りから私の敏感だった心はトゲを生やしてさらに敏感になり、他を排除し、自分と違う考えを批判し、そして何より人のことを恐れるようになった。

 夕方前の街で見かけた下校中の小学生たちは、皆きちんとマスクをつけていた。なんだかかわいそうだ、と私は思った。どういう意味でかわいそうなのか? それはなぜかぼんやりとしていた。でもひとつ言えることは、友達の顔もろくに知らないまま彼/彼女たちは大人になっていくのかもしれない、ということだった。そう思うとなんだかやるせない気持ちになった。表情が持ち合わせる情報量がどれだけ大きいものか。 
 季節は春で、寒い日と暑い日が交互にやってくるような不安定な日々が続いていた。今日は朝から天気がよく、上着も要らないくらいの陽気だった。外を歩いていると汗をかいてしまうくらいだ。
 もちろん私も外に出掛けるときはマスクを着けている。息が上がると顔に吸い付くし、眼鏡が曇るので決して快適とは言えない。でもそれは、いつしかなくてはならないもののように思えてきた。というか、ないと不安になった。常に頭の隅では何かに怯え、警戒していた。それは何年か前までは無かった感覚だった。もちろん無いに越したことはないのだろうと思うのだけれど、私の考えとしては、それは無かったのではなく、見えていなかっただけなのだ、ということである。コロナウイルスが蔓延した世の中になってから、そういったもともと持っていた気質が表面化してきたというだけのことなのだ。逆も亦然り、マスクをしない人や活動を自粛しない人たちだって、そうした気質(あるいは思想)が浮き彫りになってきただけに過ぎない。そうした気質の違いが生み出したものは大きく、たとえコロナウイルスの脅威から開放された世界に戻ったとしても、そこにあるのは確実に前とは何かが違った世界なのだろう。私たちはもうこれまでとは違う道を歩いているのかもしれない、夏のふりをした春の日差しの中を歩きながら、僕はぼんやりとそんなことを考えていた。
 
 煙草の煙を避けて歩いたせいで思ったより長く歩くことになり、シャツは汗で濡れ、脚にも疲を感じ始めていた。私は最初に目に入った自動販売機で水を買い、それを一口飲もうとマスクを外した瞬間、街の空気を一気に感じ取ったような気がした。泳ぎ終えたあとに水中から顔を出した時のように思い切り空気を吸い込んだ。春の匂いがした。桜やツツジやこぶし、色とりどりの花が街には溢れ、優しくて幸福な匂いを放っていた。そしてその向こう側にも、繊細で薄い季節の匂いが広がっていた。僕はどういうわけか、すごく泣きたい気持ちになった。過去を思い、現在を思い、できるなら泣いてしまいたかった。でもどういうわけか、私は笑っていた。広角を上げて、誰にというわけでもなく、マスクの下で小さく微笑んでいた。


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