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掌編小説「オデッセイ」(未発表)
オデッセイ
春の日差しを受けた白い外壁は不自然なほど一層白く輝き、そこに桜の花びらがまるで映画のワンシーンのように風に吹かれて舞っている。古びた丸い窓はしばらく開けられた気配もなく、美術館に飾られた誰も立ち止まりはしない展示物のようにただそこにあった。かつて蛍光灯の灯りを放っていたはずの看板の文字は消え、今では薄汚れてひび割れた、ただのプラスチックの箱になり果てていた。そしてその辺り一帯は、なんだか薄いベールのようなもので隔てられているような印象があった。まるで画面に映し出されているみたいに、妙に立体感に欠けていた。
夕方になるとからすが群れを成してその白い建物の上に止まった。春の日差しを失ったそれは昼間とは打って変わって陰気な印象を見る者に与えた。人間だって同じだ。誰かが光で照らせばその人は輝いて見えるし、逆に誰にも照らされずに日陰に居れば、その人は陰気に映って見える。そういうことだ。
まあそんなことはどうでもいい。とにかくこの日、僕はその白い建物のある交差点で、朝から晩まで交通量を調査するアルバイトをしていた。その場所に配置されたのは僕一人だけだった(他のみんなはどこに行ったのだろう?)。たいして交通量も多くないし(なんでほとんど車の通らない場所でこんなことをする必要があるのだろう?)、周りにもたいしたものは何もないので、僕はほとんどの時間をその白い建物を見て過ごした。それが何の建物だったのかを予想したりもしたけれど、僕の見解ではおそらく歯医者か何かだったのだろうと思う。歯医者でなければ何かしらの病院だ。入り口の横には四角い銀の枠に入った明かりの点く看板がある。きっとそこには診察時間や休診日が書かれていたはずだ。うっすらと曜日の表のようなものが残っている。今は一部が欠けてその中にいくつかの配線が見える。きっと当初は割とスタイリッシュで清潔感のある歯医者(あるいは病院)としてそれなりに繁盛していたのだろう。建物の造りからなんとなくそんな印象を受けた。それに周りは住宅街で、ここに来るまでも他に病院らしい建物は一切見当たらなかった。
この辺鄙な街で一人、何の為かもわからない交通量調査をしながらそんな建物を見ていると、僕は自分が小学生だった頃のことを思い出した(暇な人間は色んなことを思い出す)。小学五年生の夕方、あるいは夜だったか。放課後に僕らは友達同士で公園に集まって遊んだ。学校の近くにある公園には同じ小学校の子供たちがたくさん来ていた。だいたいみんな知った顔だった。僕らは男女関係なく鬼ごっこだったり、かくれんぼだったりをして、日が暮れるまで走り回ったものだった。
その中の一人の女の子に僕は恋をしていた。あとになってわかったのだが、その子も僕のことを好いてくれていた。でもその当時はそんなことはわからなかった。ただ彼女がオニで、逃げている僕にタッチすると、僕の心臓がドキッとなって身体に血が巡るのを感じるだけだった。これを恋と呼ぶのだろうか。しかしこのことは周りに気付かれてはいけない。なぜか子供の頃はそういうのが恥ずかしかったみたいだ。
ある日、母親に連れられてインフルエンザの予防接種を受けに近所の病院に来ていた時(それはこの白い壁の建物に似ていた)、彼女もまたその病院に予防接種を受けに来ていた。僕らは互いの存在に気付いたが、目が合っただけで、声をかけることはなかった。それでも母親同士は仲がいいらしく、長い間世間話をしていた。僕はその間に一人でトイレに駆け込んで、小便を済ませた。トイレの前にある身長を測るやつを使ってみたり、体重計に乗ったりした。その時僕の横に急に彼女の姿があった。
「何キロだった?」と彼女は言った。
「え? な、何キロだっていいだろ」と僕はなぜか強がっていた。小学生らしい。それに学校や公園以外で彼女と話すのはそれが初めてだった。きっと緊張していたのだろう。
「ふうん」と彼女は言った。「身長、どっちが大きいかしら」
「測ってみてよ」と僕は言った。
彼女は台の上に乗り、バーを頭の位置まで下ろした。
「やってみて」と彼女は言った。
僕も同じ動作を繰り返した。
「やっぱり**君の方が大きいね」
「うん」
「ねえ、私もうちょっと痩せた方がいいと思う?」と彼女は訊いた。脈絡などない。
「いや、別にいいんじゃないかな」。僕はまったく太っているとは思わなかった。
「でもほら、こんなにお肉があるのよ」と言って、彼女は僕の手を引っ張って服の上から自分の腹を触らせた。「どう?」
「う、うん。…どうだろう」。女の子の脂肪の具合など、小学生男子にわかるだろうか?
やがて彼女は自分の順番が呼ばれて、母親の方へと走って行った。
「じゃあね」と彼女は言った。
「じゃあね」と僕は言った。
彼女のその身体の感触がずっと僕の手に残っていた。
ふと視点を現在に戻すと、まるで火星に一人ぼっちで取り残されてしまったような静けさが辺りには広がっていた。たしかそんなアメリカのSF映画があった。それにしても、一昨日のことすらまともに思い出せないのに、そんな子供の頃の場面を僕ははっきりと覚えていた。不思議なものだ。その左手の感触もはっきりと思い出すことができる。思い出す度に不思議な気持ちがした。しかしそれからの僕と彼女との関係がどのようなものだったかは、上手く思い出せない。思い出したいものから人は忘れていくみたいだ。
相変わらず車は何分かに一台通るだけだった。人間だって年寄りがたまに徘徊しているくらいで、車と同じくらい少ない。それでも信号機は律儀にその役割を全うしている。
僕はスマートフォンをポケットから取り出して、J1リーグの試合のスコアを確認した。当時の僕にはチケットを買って観戦に行くだけの金の余裕もなく、動画配信も値段がそれなりにするので、こうやって試合があるときにはスコアだけを目で追っていた。意外とそれだけでも面白いものだ。この日は全部で七試合が行われていたが、そのすべてでホーム・チームがリードしていた。1―0、2―0、2―1、4―2……。後半8分、僕が贔屓にしているチームは1―0で負けていた。日本の各地に人々が集まって、熱い試合が展開されているということだが、その光景をどうしてもうまく想像することができなかった。ここには人の気配すらなかったからだ。幸い僕がスマートフォンを見ている間に車が通過することはなかった。
それからふと、今日ほとんど子供たちの姿を見ていないことに気が付いた。地図で見た限りここから遠くない場所に学校だってあるはずだし、もう幼稚園も小学校も終わる時間だ。それなのにここを通る人と言えば老人か、犬を連れた婦人か、自転車に乗った上下スウェットの中年男性くらいだった。あるいはちょうど通学路になっていない交差点なのかもしれない。まあなくはないことだ。ここは危ないので通らないようにしましょう、みたいなことはよくあることだ。でもこの交通量でこの見晴らしのよさなら、とても危ないとは思えない。まあいい、ここにじっと座って、車の数を数えて、日給を受け取ればそれでいいのだ。余計なことは考えないようにしよう。
……ああそうか。今は春休みなのだ。きっとそのせいだ。あるいはみんなサッカーの試合を観に行っているのかもしれない。
交差点を一台の白いオデッセイが通った。車体はよく磨かれているらしく、その光沢は周りの風景から少しばかり浮いて見えた。この街には何もかもが薄い層に覆われているような気配があった。それは春の日差しの下でも、暮れなずむ空の下でも同じだった。たまに通る車も薄汚れている。しかしそのオデッセイだけは輝きを失っていなかった。つまり、層のこちら側にあるのだ。僕がカウンターを一回カチッと押すと、やがてその白い車は他の車と同じようにカーブを曲がって姿を消してしまった。それはほんの一瞬のことだった。
その白く輝いたオデッセイが行ってしまうと、辺りの空気が変わったような気配がした。何が違うのだろう。辺りをよく見渡してみると、そこには人々の姿があった。老若男女。普通の街の姿だ、と僕は思った。子供達もいれば、親子連れもいる。サラリーマンもいれば、老夫婦もいる。大学生くらいの若者の姿もある。辺りは急に活気を取り戻したように見えた。住宅街の一角から、夕飯の匂いが漂ってきた。どこかから笑い声も聴こえてくる。
サッカーの試合は結局1―1で終了していた。あれから1点取って追いついたのだ。終了間際の劇的同点弾。ドロー、勝ち点1。△のマークが印される。順位の変動はない。
腕時計に目をやると、そろそろ上がる時間だった。僕は座っていた椅子を畳んでリュックにしまい、横に止めていた薄汚れた自転車に乗ってその街を後にした。
*
それ以来僕は一度もその街に行っていない。そしてあのとき乗っていた自転車は次の日誰かに盗まれてしまった。
今でも街でオデッセイを見かけるたびに、火星に取り残されたようなあの静けさのことを思い出す。しかしそこに長くいてはいけない。手持ちの酸素がなくならないうちに早く地球に戻らなくてはいけない。