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粛清と暗殺の魅力―成田悠輔や島田雅彦のいる風景
1.まえがき
no+e(2023.7.19)に、「作家・法政大学教授の島田雅彦氏の暗殺(テロ)肯定論に関わる文章が難しくて理解できなかったので書き換えてみました」という記事を投稿した。
この文章では、島田雅彦の安倍晋三暗殺を肯定する意見を、私が担当する岩手県立大学の幾つかの授業で、現代(現在)日本を象徴する社会的現象の一つとして紹介する際に、島田の文章があまりに非論理的で分かりにくいので、その趣旨を保存しながら私自身が書き直した(構成改訂のレベルを含む推敲を行った)、という内容で、書き直した文章自体も掲げた。因みに、これらの授業のより上位レベルの主題はロシア・ウクライナ戦争である。
本稿は、以上の内容をまるまる含みながらも、広い意味でロシア・ウクライナ戦争の問題とも関わらせ、且つ上記文章には殆ど入っていなかった私自身の意見や感想も加えた、拡張版である。但し、ここで取り上げている成田悠輔や島田雅彦への本格的な批判や論評は、現段階ではまだ彼らの文章や発言を十分に収集・解析しているとは言えないので、今回は控えることにする。
2.成田悠輔の「高齢者集団自決(切腹)勧奨論」乃至粛清論
私自身は、数年前から日本のマスコミに頻繁に現れ始めたらしいこの人物に全く関心がなかったのでその経緯は知らなかったが、成田は数年前から、社会のリーダー層の人々や高齢者がたくさん自殺(どうやら「切腹」が好きなようだ)してくれることが、今の暗い日本社会を明るい未来に転換するための有効な策であると主張していたようである。
私は、その説そのものに興味を持つと言うより、ロシア・ウクライナ戦争との絡みで避けては通れないと思われるスターリンという強烈な人物乃至現象からの連想で、初めて好奇心を動かされ、「【成田悠輔×堀江貴文】日本のIT産業はなぜ失敗した? ホリエモンが考えるこれからのインターネット (URL: https://www.youtube.com/watch?v=7vorIkYheFw)」(2022年2月1日)という昨年の動画を視聴したところ、確かに成田は上記の趣旨のことを発言していた。その後、モトコ・リッチとヒカル・ヒダが成田のこの考えについて論評している(Rich & Hida, 2023)。
推測すれば、成田が言いたいのは高齢者一般への自殺や切腹の勧めと言うより、今の日本の社会の現実を決定するのに最も大きな力を持つ社会リーダー層への自殺(切腹)の勧め(勧奨)であると思われる。しかし現実問題として、その種のリーダーは、今の日本では高齢者であることが多いと見做され、高齢者への自殺(切腹)の勧め(勧奨)と解釈しても、大きな間違いはない。またその場合少数だけ自殺(切腹)してもあまり効果はないだろうと思われる。つまり、このようなことを主張するからには、できるだけ多数の高齢者(リーダー層)が集団的に自殺(切腹)することが重要になるだろう。
そこで私は、成田のアイディアを、「高齢者集団自決(切腹)勧奨論」と呼ぶことにする。切腹への偏愛が見えるので、その方がご本人も気に入ってくれると思い、切腹という言葉もわざわざ入れておくことにする。
ここで私が言いたいことは一つだけで、それは、成田のこの発想はスターリンによる粛清、例えば最もひどかった1937年から1938年にかけての「大テロル」のようなものを連想させる、ということである。二年に満たない期間に70万人程の人が銃殺されたと言われるスターリンの大テロルについての詳細はここでは省くが、これは、「旧世代を(強圧的に)抹消して若返りの世代交代を図る」という意味で、強烈過ぎる窮極の理想の経営学であるかのように見えないこともない。スターリンによる大テロルは、多少はソフトなやり方によってであれ、それに類することが果たして実行できないものかと思わせるような、魅力の光を放ち得ることが想像される。
スターリンが罪をでっち上げて人々を銃殺したのに対して、度胸のない成田の主張はそういう面倒を排し、高齢者(社会リーダー層)の自主的な死―自殺・自決(特に切腹)を勧めるもので、表面的には異なるが、本質は極めて近いものであり、成田が本当に言いたいことは「社会リーダー層や高齢者は皆殺しにすべし」ということなのかも知れない。(発言の趣旨からすれば、それ以外の解釈はできないように思う。但し、断言するには私にはまだ材料が少な過ぎるので、これはあくまで私の単なる憶測であるに過ぎない、と言っておこう。)もしそうだとすると、成田の「高齢者集団自決(切腹)勧奨論」のアイディアは、特定集団の虐殺やジェノサイドの概念にかなり接近することになる。勿論、アイディアの発言だけで実行していないが(但し、端的に言えば「自殺の勧め」ということなので、マスコミや動画を通じての発信も効果を持ち得る)、「ジェノサイド的なアイディアの発言」という観点からの論評や批判の対象にはなり得るものだろう。
実際、スターリンの大テロルの目的は、例えばロシア革命実現のために尽力した古参共産党員や、ロシア内戦期に活躍した軍人などを含め、旧世代の人々を「皆殺し」(厳密に言えば全員殺したわけではないだろうが、喩えあるいは言葉の綾だと言うにしては、あまりに皆殺し的なものであった)にし、新世代を政権や社会の中枢部に引き立て、「若返り」を図り、それによって社会を再活性化することであった。
しかし、理想(目的)を実施しようとする時、多数の行き違いが生じて滑稽な様相(単に面白おかしいという意味ではない、複雑で悲惨・悲劇的な意味での滑稽さ)を呈する、というのは、スターリン政権あるいはソ連政権において毎度起こっていたことであった。例えばウクライナにおける人為的飢餓ホロドモールは、農業集団化の過程で、富農(クラーク)を抹殺するための政策の結果であったが、どんなに貧しい農民でも(上の)都合によって富農にされてしまった。大テロルの際も、趣旨とは全く関係のない多数の人々が犠牲になった。しかし「目的(趣旨)は手段を正当化する」というお馴染みのロジックの徹底化によって、すべては自然現象であるかのように許され、諦められてしまうのだ。
最後に、私が気になるのは、もし成田のアイディアが社会的に実行に移された場合、つまり文字通りに受け止め具体的な実行過程を詳細に想像してみるなら、現在よりも産業化・システム化された大量埋葬機構を必要とするだろう、ということである。
少し想像してみれば分かるが、一日に数千人もの人々を殺害するスターリンの大テロルは、それを実行するのに、銃殺者リストを作成する担当者(銃殺か、監獄送りか、強制収容所送りか、稀に無罪放免か、などの振り分け作業にも一苦労)から実際に銃で頭蓋を打ち抜く死刑執行人まで、膨大な数の人々が緊密な官僚機構の下に統制されていなければならなかった。スターリンの子分ニコライ・エジョフはその統括を天才的にうまくやったが、スターリンから「お前やり過ぎじゃないか」と最後にいちゃもんを付けられて、半狂乱になって泣きながら命乞いしたものの適わず、自らも銃殺されてしまった。
ソフトウェアのシステムも毎度ロクに統括・設計・開発できないことが暴露されてしまっている現代(現在)日本において、成田が主張する「高齢者集団自決(切腹)勧奨論」に基づく政策を実現する機構とシステムがまともに作れるのかは非常に疑問である。このアイディアを本気で考えているなら、コンセプトだけでなく、具体的な実行過程やそのシステム・機構についても論じてほしい、というのが私の希望乃至期待である。
3.島田雅彦の「暗殺(テロ)肯定論」
これについては、まず、冒頭で示した「作家・法政大学教授の島田雅彦氏の暗殺(テロ)肯定論に関わる文章が難しくて理解できなかったので書き換えてみました」という文章を少し手直しして、採録しておこう。
島田は、自分の動画チャンネルAir Revolutionに今年(2023年)4月14日に配信した動画の中で、「(安倍晋三元総理大臣の)暗殺が成功して良かった」という発言をした。これは数か月前の一時期話題になったが、その後どうやらマスコミで大きく取り上げられることもなかったようである。また、島田は「言論弾圧に負けない」という意思表示のために(?)、上記動画を削除することもしていない。ということは、その発言すなわち安倍晋三暗殺(テロ)肯定論は、失言ではなく、正真正銘島田の確信的なアイディアであると解釈して良い、ということになる。
因みに、上記番組の共演者は、青木理と白井聡(京都精華大学准教授)であり、島田のこの発言の際、白井は見た限り特段の反応はしていなかったが(肯定も否定もしなかったという意味)、青木は「そうですよね」と肯定していた。
もう一つ因みに、島田は恐らく私より少し年下に違いないがほぼ同世代であり、記憶では、私が学生だった頃あるいはその少し後、文芸誌にデビューし、かなり評判になっていたので、私も立ち読みはしたが、テーマには惹かれるものの実際にページを開いて文章を斜め読みしてみると、私にはかなり煩雑で分かりにくい文章に思え、どうしても読む気になれなかったので、常に関心は持ちながらも結局、今までまともに通読した本は評論集一冊だけである(とは言っても、読んでいて忘れている本もかなりあるので、実は若い頃数冊は読んでいたような気もする。雑誌類で相当の数のエッセイと少数の小説を読んでいたのも確かだ)。従ってここで暗殺(テロ)肯定に関わる島田の思想を本格的に論評する資格は私にはないが、しかし後述のようにこれに関して一編の文章を島田は書き残しているので、純粋にそれだけを素材として、論評を加える権利は私にもあるだろう。
なお、青木については、テレビで妙なことを発言しているのを極く稀に見たことがあるだけである。白井については、数冊の本を買い、『永続敗戦論』という、トロツキーのパロディーめいたタイトルの本を読んだが、北朝鮮による日本人誘拐事件について、それ程大した事件ではないと書いている部分が印象に残った。
島田の発言も含め、世界的な基準(常識)と照合して考えると、この三人が、島田が上記動画の中で自称しているような「(政治的)リベラル」ではないことは明らかである。(「一党独裁暴力革命派」なのかどうかは分からないが。)
この動画での島田の発言に対して、夕刊フジが四項目から成る質問を島田に出し、それに対して島田が書いた回答文が同紙に掲載された(2023年4月19日)。
四項目の質問は以下の通りである―
① 「あの暗殺が成功して良かった」という発言の意味・真意は。
② 暴力で言論が封じられることを、時と場合によっては良いと考えるのか。
③ 法政大学教授として「テロ行為の容認」という教育をしているのか。
④ 放送翌日、岸田首相に爆発物が投げつけられる事件が発生した。感想を。
それに対する島田の回答文を、少し長くなるが、以下に全文引用する―
「テロの成功に肯定的な評価を与えたことは公的な発言として軽率であったことを認めます。殺人を容認する意図は全くありませんが、そのように誤解される恐れは充分にあったので、批判は謙虚に受け止め、今後は慎重に発言するよう努めます。
ただ、安倍元首相襲撃事件には悪政へ抵抗、復讐(ふくしゅう)という背景も感じられ、心情的に共感を覚える点があったのは事実です。山上容疑者が抱えていた旧統一教会に対する怨恨(えんこん)には同情の余地もあり、そのことを隠すつもりはありません。
さらに政権と旧統一教会の癒着を暴露する結果になったのも事実です。今回の「エアレボリューション」での発言はそうしたことを踏まえ、かつ山上容疑者への同情からつい口に出てしまったことは申し添えておきます。
また大学の講義で殺人やテロリズムを容認するような発言をしたことはありません。テロ容認。言論に対する暴力的封殺に抵抗を覚えるのは一言論人として当然であるし、また暴力に対する暴力的報復も否定する立場から、先制攻撃や敵基地攻撃など専守防衛を逸脱する戦争行為にも反対します。
戦争はしばしば、言論の弾圧という事態を伴ってきたという歴史を振り返り、テロリズムと同様に戦争にも反対の立場であることを明言しておきます。
一方で、安倍元首相暗殺事件や岸田首相襲撃事件を言論に対する暴力と捉える場合、これまで政権が行ってきた言論、報道への介入、文書改竄(かいざん)、説明責任の放棄といった負の側面が目立たなくなるということもありました。
また民主主義への暴力的挑戦と捉えると、国会軽視や安保三法案の閣議決定など民主主義の原則を踏み躙るような行為を公然と行ってきた政権があたかも民主主義の守護者であったかのような錯覚を与えるという面もあります。
テロは政権に反省を促すよりは、政府の治安維持機能を強化し、時に真実を隠蔽することに繋がることもあるがゆえ、肯定的評価を与えることはできません。そのことはテロリズムを描いた拙著『パンとサーカス』でも明らかにしています。
放送の翌日に岸田首相に爆発物が投げつけられる事件が起きましたが、歴史を振り返ると、テロリズムが世直しのきっかけになったケースはほとんどないし、連鎖反応や模倣犯を呼び込む可能性もあると改めて思いました。」
ところで、私は昨年2月から、ロシア・ウクライナ戦争に関して、素人なりの立場から調査・研究を行っており、間もなく新曜社から『物語戦としてのロシア・ウクライナ戦争―物語生成のナラトロジーの一展開』という書物が刊行される予定であるが、現代日本の社会状況や社会現象もこの調査・研究の射程範囲に含まれている。
所属する大学の各種授業でもロシア・ウクライナ戦争や、それとの関わりで、現代日本社会の諸問題を取り上げており、ここで取り上げている島田による「暗殺(テロ)肯定思想」も、学生が自分の頭で物事を考えるための素材として利用させてもらっている。
島田は著名人であり私のような無名人とは違うが、同じ大学教授という立場であり、「大学の先生と言ってもいろいろな考え(思想)の持ち主がいます。偉い(と世間から思われている)人の言うことだからと言って鵜呑みにせず、自分の頭で考えましょう」と学生にはアドバイスし、私とはかなり異なる意見・価値観が表明されている文章の一例として、島田のこの暗殺(乃至テロ)肯定論を学生に情報提供している。
しかし一つ困ったことがあった。それは、上で引用した島田の文章が、あまりにも非論理的で、理解するのが大変困難な文章である、という点であった。この文章だけ学生に見せても、恐らく何を言っているのか分からないし、そもそも私も良く理解できないので、学生に対して論理的に説明することもできない(大学教員に求められているのは、学生に「文学的に」(?)説明することではなく、論理的に説明することであると、私は信じている)。ただ、島田が安倍晋三の暗殺テロを肯定しているという趣旨は誰が読んでも伝わって来る。この点では、さすが作家先生である。そのことを踏まえた上で、かなり苦労しながら(「・・・どうして俺のような素人が、有名な“大作家”(?)の書いた文章を、構成の改訂レベルから大規模に、しかもタダで、推敲してやらなければならないのか、理不尽極まる・・・」とブツブツ呟きながら)、ひどく混濁したその文章の諸命題を腑分けした上で再結合し、以下のように書き換えたバージョンも併せて学生には提供している。そうしないと最低限論理的に説明できないので、そうした次第である。
参考までに、私が書き換えた文章を以下に掲げる―
「私は山上のテロの成功に肯定的な評価を与えました。これは確かです。しかし、公的な発言としては軽率であったと考えています。その点での批判は謙虚に受け止め、今後は慎重に発言するよう努めます。
そもそも私は暴力が嫌いです。当然テロも暴力です。大学教授の立場から、大学の講義で、殺人やテロリズムを容認するような発言をしたことはありません。テロ容認や、言論に対する暴力的封殺に抵抗を覚えるのは、一言論人として当然です。
また、話が少し飛びますが、私は、暴力に対する暴力的報復も否定します。さらに話が飛びますが、政治的には、先制攻撃や敵基地攻撃など、専守防衛を逸脱する戦争行為という暴力にも一切反対します。
さらに話が飛んでしまい恐縮ですが、戦争はしばしば、言論の弾圧という事態を伴ってきました。このような歴史を振り返り、テロリズムと同様に、戦争にも反対します。
このように、あらゆる暴力が嫌いな私は、当然テロを否定します。テロは政権に反省を促すよりは、政府の治安維持機能を強化します。また、時に真実を隠蔽することに繋がることもあります。それゆえ私は、テロに肯定的評価を与えることはできません。(そのことはテロリズムを描いた拙著『パンとサーカス』でも明らかにしています。)
放送の翌日に岸田首相に爆発物が投げつけられる事件が起きました。歴史を振り返ると、テロリズムが世直しのきっかけになったケースはほとんどなかったと私は思います。また、連鎖反応や模倣犯を呼び込む可能性もあると、改めて私は思いました。
しかしながら、山上による安倍元首相襲撃事件には、悪政への抵抗・復讐という背景があります。その点で私は、心情的に山上に共感を覚えました。山上容疑者が抱えていた旧統一教会に対する怨恨には同情の余地があります。私は、そのこと、つまり自分の山上への同情心を隠すつもりはありません。実際山上のテロは、政権と旧統一教会の癒着を暴露する結果になりました。
確かに、安倍元首相暗殺事件や岸田首相襲撃事件は言論に対する暴力です。しかし、そのことを問題視し過ぎれば、これまで政権が行ってきた言論・報道への介入、文書改竄、説明責任の放棄といった負の側面が、目立たなくなります。
また、山上のテロは民主主義への暴力的挑戦ですが、それを強調し過ぎれば、国会軽視や安保三法案の閣議決定など、民主主義の原則を踏み躙るような行為を公然と行ってきた政権が、あたかも民主主義の守護者であったかのような錯覚を、人々に与えるという効果をもたらします。
今回の「エアレボリューション」での発言では、そうしたことを踏まえ、かつ山上容疑者への同情心から、私は山上による安倍暗殺のテロを肯定的に評価しました。」
このように書き換えてみると、島田の論旨は寧ろ極めて単純である。
この文章における島田の主要「命題」を、次のように幾つか取り出すことができる。
命題1:自分(島田)は、小説の登場人物としての立場からではなく、自分自身の立場から、暗殺者による、安倍元総理大臣の暗殺(テロ)を肯定する。
命題2:自分(島田)は、暗殺・テロ、戦争を含むあらゆる暴力が嫌いである(肯定しない・否定する)。
命題3:安倍晋三による自民党政治は、非常に暴力的な悪政であった(今の自民党政治も悪政である)(と自分(島田)は思っている)。
命題4:自分(島田)は、暗殺者の不幸な生い立ちなどに同情している。(この不幸の原因の一部は安倍晋三もしくは安倍政権である(と自分(島田)は思っている。)
島田の元々の文章の意味を多くの人が理解できない理由は、上記命題1と命題2が矛盾していることである。但し、例えば「私はブドウが嫌いです」と言って、「しかし、山梨の甲斐路というブドウだけは好きです」という論理も可能である。つまり、「私は暴力一般が嫌いです」と言って、同時に「でも、やむを得ない暴力は好きです」という理屈である。島田にとって、暗殺者による安倍晋三暗殺は、この「やむを得ない暴力」に相当するものと思われる。そして、命題3と命題4が、この「やむを得なさ」性を支えるものとなっている。つまり、「私は暴力一般は嫌いです(否定します)が、安倍晋三はあまりに悪い奴で、暗殺者はあまりに可哀そうな奴なので、今回の暗殺(テロ)に関しては、私は好きです(肯定します)。」という論理的回路である。
この島田の論理をどう解釈し、どう評価するかということが重要な課題となるが、世間ではその後の議論は殆ど進んでいないように見える。特にマスコミは、この発言を殆ど取り上げてはいない(前半の成田の発言についても然り)。マスコミは、芸能ネタは大好きで、例えば市川猿之助に関しては膨大な言葉が飛び交っているが、「知識人」には弱いのだろうか。
4.あとがき
ところで、私は暗殺やテロを描いた小説や評論もかなりたくさん読んで来た(ドストエフスキー、アンドレ・マルロー、舟橋聖一、三島由紀夫、高橋和己、大江健三郎、松本清張、笠井潔等々)。テロリストや暗殺者が、内在的に、暗殺やテロに走る心理を描き出すことは、作家にとって非常に魅惑的な作業なのだろう。私自身も、もし可能なら、ある種の人々を皆殺しにしたり、また定点的に暗殺したりする作品を書いてみたいものだと思っている。
しかしながら、フィクションとしての物語の世界と、現実としての物語の世界との間には、一つの境界がある。島田に見られるような、「暗殺者への共感と悪政への憤怒(感情)が、暗殺の肯定に結び付く論理」は、前述のスターリンを超えて、ボリシェヴィズムに始まるソ連の二十世紀が全面的に体現した、「目的は手段を正当化する」という原理主義的な・ユートピア的思想を明らかに想起させる。革命主義的発想とも言える。
真の作家の仕事は、この種のテロリズムや暗殺の論理(さらに成田の節で述べた粛清の論理)を、内在的に追体験しながらも、作家自身がその論理の中に吸い込まれて行くのではなく(島田は、無意識的に吸い込まれて行ったのだろうか? それとも意識的・意図的に吸収されて行ったのだろうか。「革命」といった言葉を使いたがっているからには後者なのかも知れない)、相対化された、より俯瞰的な視点によってこの種の危険な思想を抜本的に批判することであると私などは思うのであるが、どうやら島田の考えはそれとは異なるようだ。
そんな物騒なことが実際に起こらないことを願うが、今後もし日本において、島田や成田らの影響を受けた、「目的のためなら手段を択ばず」という思想で武装した輩が現れ、まとまって行動し始めた時、十分に対抗することができるように、日本国内においても、「物語戦」を着実に進めておく必要があると考える次第である。
因みに、私は島田とは違って、「あらゆる暴力が嫌いである」(上記命題2)という感覚(思想)は持っていない。
参考文献
Rich, Motoko & Hida, Hikari (2023). A Yale Professor Suggested Mass Suicide for Old People in Japan. What Did He Mean?: Yusuke Narita says he is mainly addressing a growing effort to revamp Japan’s age-based hierarchies. Still, he has pushed the country’s hottest button. The New York Times. (Feb. 12, 2023)
白井聡 (2013). 『永続敗戦論―戦後日本の核心』太田出版.