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流動小説の実験について

概要

物語生成システムを用いた「流動小説」の実験について紹介し、その概念や方法に関して議論する。ここで言う流動小説において、私は人間による制作と物語生成システムによる生成とを結合し、最終的に「固定された」小説―物語コンテンツ―を完成することを狙っている。本稿では、その物語制作についての幾つかの概念や方法論について論じた後、現在進めている流動小説の実験的制作について紹介し、今後の研究と制作の方向について議論する。

はじめに

これは、マガジン『流動小説集』のコンセプトについて述べた文章である。
大部分抽象的な記述となってしまったが、御容赦願いたい。
これをやや拡張し、また参考文献も付して、2023年12月22日から23日にかけて、盛岡駅西口の県民会館七階岩手県立大学アイーナキャンパスで開かれる、人工知能学会ことば工学研究会のための予稿とする。
また、この研究会において、もう少し具体的なことを交えながら、研究発表する予定である。

ことば工学研究会 (arc.net.my)

物語生成システムと人間(私)の物語/小説―非‐虚構性/虚構性、私性/非‐私性

人間にとって「自分・私」というのは特権的な存在である。
それが自分にとって、あるいは他者にとって、どんな意味や価値を持っているのかに拘らず、多くの人間は自分や私という存在を、その存在全体のかなり中核的なものとして、位置付けている。
 
また、人間にとって、表現という行為も、一般的に、重要なものとして位置付けられている。人間は様々な表現行為に携わる。
小説や物語を制作するという行為は、人間の表現行為の中の代表的なものの一つである。
小説や物語の制作は、人間の個人幻想を表白するための重要な作業である。しかし、それはノンフィクション(非‐虚構)としての日記や自叙伝等の制作とは、異なる性格を持っている。
もし、自分や私というものを、素直に、全面的に表現しようとするなら、人は日記や様々なタイプの自伝的な記述を用いるであろう。小説も、時にその種のものと見做されることがあるが、しかし、日記や自伝的な各種文章とは異なる性格を持っている。
まず、小説や物語は、虚構性を強く持つ表現タイプである。
それはまた、「私」をそのまま、直接的に表現するためのジャンルでもない。
同時に、小説/物語、特にその中の小説的要素は、自分/私という存在と切り離されては存在し得ない。
小説/物語は、「虚構性/非-虚構性」と、「非-私性/私性」という、二つの概念対において、それぞれの中間的な位置を占めるという、特有の性格を持っている。
 
ここまでは、小説/物語の一般の論述であったが、これから、それを巡る、私自身のスタンスに基づく論述に移行しよう。
ここで言う「私性」を、私を表現したいという欲求だと解釈すれば、小説/物語は、私にとって、私性を強く持った表現ジャンルである。
私は、小説/物語を通じて、私における私性をとことん表現してみたいと思っている。
しかし、私性の追求だけを行なえば、表現物の結構は破壊されてしまう、という予想をも、私は同時に持っている。
そこで、私性の追求の中に、「非‐私性」を、如何にして紛れ込ませるか、ということに興味を持つことになる。
この非‐私性は、虚構性というものと関連している。
私は、小説/物語を通じて、非‐私性に基づく虚構の世界を構築したいと思っている。
しかしもう一方で、虚構の世界の中に、あるいはそれとの関係において、私における私性と強く結び付いた、非‐虚構の世界を設けたいとも考えている。
 
物語生成システムや、後述する「暗号化小説」の概念は、小説/物語における私性を非‐私的にし、非‐虚構性を虚構化するための、道具である、と定義することが出来る。

「流動と固定」のコンセプト

「流動と固定」は、物語生成という現象全般を貫く概念もしくは概念対であると同時に、物語の制作や物語それ自体を特徴付ける概念でもある。
単体としての小説/物語は、流動的性格と固定的性格との双方を持つ。
すなわち、ある小説/物語は、書かれ・制作され、発表・公表されるが、一旦書かれたものが再び直され、訂正され、また一旦発表されたものが、直されてまた発表される等、必ず流動的な性格を持つ。
小説/物語における流動的性格は、仮に作者自身が死んでしまったとしても、なお完全には停止されることはない。
しかしながら、あるいは同時に、小説/物語は、例えば、書かれ終わった時点で、発表された時点で、一旦固定的な性格を持つことになる。
我々は、ある小説/物語を、この流動‐固定の間の運動として、見ることが出来る。
 
流動‐固定の相互運動は、どんな小説/物語においても見られる、普遍的な運動である。
しかし、これを謂わば操作的な観点から眺めることも出来る。
すなわち、物語生成システム等の技術的機構を利用することによって、これを操作的に利用することが、出来るようになる。
例えば、一旦出来上がった、すなわち固定化された小説/物語の中に、物語生成システム乃至それと関連する機構を挿入しておくことによって、これを、流動化の機構を内在化させた小説/物語とすることが、出来るようになる。
表面的なイメージでは、読者によって、あるいは使用の時々に、表層的な言語表現が変ってしまう小説/物語を作ることも可能である。
 
物語生成システムやそれと関連した技術的機構は、制作されたあるいは制作されている小説/物語における、私性を非‐私性とつなぎ、あるいは私性の中に非‐私性を導入し、またその非‐虚構性を虚構性と接続するための機構として機能する。また、小説/物語における固定性を流動化するための機構としても、機能する。
すなわち、物語生成システムやそれと関連した技術は、私性/非‐私性、非‐虚構性/虚構性、固定性/流動性の、それぞれの軸における操作を行うと共に、それらの多様な諸関係を作り出すことによって、小説/物語の制作や、制作された小説/物語そのものにおける、様々な変化を作り出すことが出来るのである。

小説/物語における形式と内容―物語/小説の構成要素―

人工物としての小説/物語は、内容的要素と形式的要素とから、構成されている。
 
ここで内容的要素とは、総体としてストーリーと呼ばれるものである。
ストーリーの中には、話の筋、その筋の中に現れる登場人物、事物、時間的要素や空間的要素等の、すべてが含まれる。
 
一方形式的要素は、内容的要素の具体的な表現に関わるすべての要素を含み、多岐にわたるが、大きく二つのグループに分けることが出来る。
 
一つのグループは、物語の内容すなわちストーリーを表現するための、具体的な言説構造である。
例えば、「筋」と呼ばれるものもこの中には含まれる。但し、この場合の筋は、ストーリーの場合の筋とは、異なる。
ストーリーの場合の筋は、時間順に進行する出来事の順番である。
一方、形式的要素という意味での物語の筋とは、その時間的に順序付けられた出来事群を、どのような順序で語るのか、という意味での筋である。
この二つは明確に異なる。
例えば、[E1‐E2‐E3]という順序で展開されるストーリーにおける出来事が、[E3‐E1‐E2‐E3]という順序で語られることがある。あるいは可能である。
この意味での、すなわち形式的要素としての筋のことを、しばしばプロットと呼び、ストーリーと区別する。
このグループ、すなわち言説構造の中には、このプロットの他にも、様々な方法が含まれ、総合的に、抽象的なものであるストーリーを超えて、物語を具体化するのに貢献する。
 
他方、小説/物語における形式的要素における第二のグループは、より表層的な、謂わば則物的な表現そのものに関わるレベルを意味する。
ここで注意しなければならないのは、広く「物語」と言う場合、その表現媒体(メディア)は、言語に限定されない、ということである。
しかしここでは、「小説/物語」という表現を使うことによって、対象が言語による物語である、という制約を掛けている。
従って、ここで言う表現メディアは言語であり、従って形式的要素の第二のグループは、小説/物語の言語表現そのものを具体的に実現するレベルにおける、そのような意味での言説、ということを意味している。
その中には、漢字をどの程度使うのか、改行はどの程度行うのか、一文の長さは長いのか短いのか、といった、極めて具体的な要素が含まれる。
 
さて、このような意味での小説/物語における内容的要素と形式的要素とを、一般論としてではなく、あくまで私自身の制作対象としての小説/物語の問題として考える時、まず、「物語の素材」という問題が浮かび上がる。
上述の物語内容すなわちストーリーの説明は、作られた小説/物語という観点からの論述であったが、それを制作するプロセスに焦点を当てた場合、「素材」というレベルがよりはっきりと浮かび上がる。
 
そしてこの素材を巡る問題は、前述した、物語における私性/非‐私性、非‐虚構性/虚構性、という二組の軸と密接な関連を持つ。
素材を、私性が強く、非‐虚構性が強いものを中心に用意する、という一つの方向があり得る。
逆に、非‐私性が強く、虚構性が強いものを中心に準備する、という方向もある。
では実際に、私自身が小説/物語との関連で、具体的にどのように考えているかと言えば―双方の視点から素材を集める、という風に考えている。
私性や、非‐虚構性が強い素材を集め、これに基づいて小説/物語を作れば、それは「私小説」(的な小説/物語)に近付く。
それに加えて、非‐私性や虚構性が強い素材をも等分に集め、利用して小説/物語を制作するとすれば、私小説的な要素を含みながらも、それを超えた小説/物語が出来上がる可能性が高くなる。
私はその種の小説/物語、すなわち非‐私性や虚構性に基づく素材と、私性と非‐虚構性に基づく素材とを、意識的に等分に集めることで、構成された小説/物語のことを、「全体小説」という言葉で呼んでいる。
すなわち、物語の内容という点からは、私が目指す小説/物語は、私小説的な要素を内在させた全体小説である、ということになる。
 
それでは、もう一方の形式的要素に関しては、どのように考えているのか?
まだ物語の内容に関してのように明確には説明出来ないが、一つ言えるのは、多様性を目指す、ということである。
これは、言説構造のレベルから言語の表層表現のレベルにわたって、多様な技法を利用することをコンセプトとする、ということを意味している。
しかしそこにも一定の「戦略」や方針は必要である。
それについて確定的に言うことがまだ出来ないが、前述した流動と固定の考え方をそこに導入したら、面白いのではないかと考えている。
例えば、一つの小説/物語について、あるいはその制作過程において、流動的に、小説/物語における言説構造や言語表現の実験を行う。そして最終的に、何らかの機構を通じて、その固定化を図る。
そんな制作過程を想定することが出来るだろう。

流動小説の第一次実験

以上のような諸概念による小説/物語の一つの制作実験として、現在『無題』と題する小説/物語作品を制作・発表する、実験を試みている。
それが、このnoteのマガジン『流動小説集』である。
 
第一段階では、歌舞伎のある物語の分析結果や、私自身の物語生成システムにおけるデータ構造、新聞記事等を利用して、小説/物語の雛形を、現在私自身が執筆している。現在、三分の一から四分の一程度の執筆が終わっている。
第二段階において、執筆が終わった部分ごとに、「暗号化」と呼んでいる機構によって、元の文章や言語の表現を部分的に書き替えている。
その際、一定の方法を統一的に使用しているのではなく、部分ごとに方法を少しずつ変えて試みている。
今まで使用した具体的な方法には、名詞の変換、動詞の変換、語尾の変換、単文化、複文化等が含まれる。
名詞や動詞の変換のためには、私自身が開発した、統合物語生成システムにおける概念辞書を利用しているが、その際、変換される名詞や動詞の類似度の計算と操作も行っている。
また、元の文章における同じ名詞や動詞は同じ名詞に変換する方法と、異なる名詞や動詞に変換する方法との、両者を併用している。
今後、この暗号化のためには、より多くの方法の使用を試みて行く予定である。
 
なお、「暗号化」とは、小説/物語における、私性を、非‐私性の方へ移行させるための、一つの方法である。
小説/物語というものを私が書きたいと思う理由の一つは、その中に、人には言えないような、また現実社会の中では実行出来ないような、そんな忌まわしいことを、どうしても表現したい欲求に駆られることである。
例えば、誰かを殺したい・殴りたい・篠田英朗(東京外国語大学教授)流に言えば「快楽殺人」に耽りたい、といった欲望、論理では到底勝ち目のない相手にどうにかして復讐してやりたいといった願望、等々どれだけあるのか見当も付かない程の、自分自身の中のネガティブな感情・願望・欲望・欲求の類を、小説/物語の中で、全面開放してみたい、ということが、小説/物語というものを書く、私自身の一つの理由、動機となっている。
しかし、それをそのまま発表してしまえば、いろいろな意味で差し支えがある。
少なくとも、私が生きている間は、あるいはどうでも良くなるまでの間は、何とか隠しておきたい。
そして何処かに隠しておいた鍵(キー)を、何かのタイミングで使用可能とすることによって、差し支えがなくなった時期に、忌まわしい小説/物語の元の文章を、全面公開してやりたい。
私は、このような意味で暗号化された小説/物語を、「暗号化小説」と呼んでいる。

小説/物語の内容的素材としての、社会的現象を対象とする日本の物語戦について―直近の一事例―

新曜社から今年の九月に発刊した、『物語戦としてのロシア・ウクライナ戦争』という本の中にはっきりと書いておいたが、私がこの本で扱った類の、日本の論者達の「物語戦」を扱ったのは、それを私自身の小説/物語のための、社会的なレベルにおける物語内容のための素材として利用することを意図してのことであった。
上記の本における「社会的現象」とは、ロシア・ウクライナ戦争そのものと言うより、それを巡る日本における言論空間内での出来事であったが、物語戦という概念はより普遍的なものである。
例えば現在も、ネット空間上で、イスラエル・ハマス戦争乃至イスラエル・ガザ戦争の文脈において、言論人の間で物語戦が展開されている。
 
例えば、在野の中東問題研究者・評論家の飯山陽氏と、東京大学先端科学技術研究センター教授で中東問題研究者の池内恵氏との間で、論戦が闘わされている。(以下、「氏」は省略する。)
その経緯については、上記の書物の中で、私が橋下徹のツイッター記事についての論評を書く際に行ったような、詳細な分析が必要となるので、ここでは省略する。
その代わりここでは、この物語戦に関する私自身の一つの解釈を、私の小説/物語の物語内容の素材に関する考え方との関わりにおいて述べるに留める。
 
吉本隆明の共同幻想論という思想がある。
「共同幻想」の側面のみが雰囲気的に扱われることが多いが、その諸作品を読んでいると、何が重要なのかが分かる。
この思想のポイントは、人間の幻想領域には、共同幻想、対幻想、個人幻想の三つがあり、一見、共同幻想がその他の幻想領域を包含するように見えるが、実際はそうではなく、三者はそれぞれ相対的に独立した幻想領域として、固有の価値を持っている、ということである。
特に、例えば戦争状況のような、共同幻想性の力がより勝るような状況において、対幻想や個人幻想に、対等の価値を認めるところに、思想提案者としての吉本の力点があった。
この考えに基づけば、例えば、個人幻想や対幻想を重視する立場からの「転向」という精神的現象は、通常は、転向者における共同幻想性からの「落伍」として見られるが、吉本はそうした観点からの転向者への批判を行うことはしない。
寧ろ、観念的な思想という抽象性から大衆的な具体性への「落下」、というこの現象の中に、ある積極的な価値を認める。
私性は、共同性と同等の価値を持つことが出来、ある場合には私性が共同性を包含していても良い。
あるいは、池内によって「低能」・「ネトウヨ」等と蔑視される「大衆的」存在の私性は、必ずしも、池内によって意識されているに違いないような、「劣性」としてレッテル貼りされるようなものではない。
池内は、ネット世界の中に現実の法制度的秩序を持ち込み、それによって「民主主義」や先進的な研究上の試行等の共同幻想的価値を守護しようとし、そのような「価値のある」自らの行動によって、常識的に見た場合の侮辱的な言葉の数々を正当化しようとしており、またそれに賛同する仲間も存在する。
すなわち、共同幻想至上主義的な世界観が、池内において、新しい形で蘇っている状況を、我々は見ている。
 
このような思想を踏まえて考えてみる。
私が、飯山の文章や映像資料から読み取ったのは、飯山が、池内の放つ様々な侮蔑用語から、侮辱や、権威的な威圧を感じ、その感覚(感情)から池内に対する反論を成している、という構図であった。
それに対して池内の方は、明らかに侮蔑的で威圧的な言葉使いを、恐らく主観的に問題視せず(客観的にも一切謝っていない)、問題の構図を、社会的なレベル(共同幻想的なレベル)に「引き上げて」(この言葉に価値観は含まれていない)論じている。
その際、仮に池内の側から、「飯山の関係者」がある党派的な塊として見えるとしても、その経緯を丁寧に辿れば、もともと飯山の言説は、何らかの政党や党派との関わりで発されたものではなかったことは明らかである。
それにも拘わらず、池内は、飯山を政党や党派の存在と結び付け、自分と同等の共同幻想の領域に引き上げて、対立の構図を明瞭化させようとしている。
すなわち、飯山は、もともと、池内の侮辱的な筆致に、個人幻想レベルで反発を感じ、それに対する「謝罪」を求めていた筈だ。
しかし池内の方は、この問題を「社会問題化(共同幻想化)」することによって、個人幻想レベルにおける謝罪や常識の問題をスキップ可能であると、(恐らくは無意識裡に)信じているようだ。
 
このような池内の論理は、典型的な「男の論理」である。
すなわち、共同幻想と個人幻想、対幻想の価値的階層性を信じる論理である。
簡単に言えば、「俺は、社会のため、組織のため、正しい制度のために戦っているのだ。だから、多少の言葉使いの粗さは免責されるべきだ。それを邪魔立てするゴミのような輩を始末することも、より崇高な大義の観点から、正当化されるべきだ。そんなこと以上に、俺はもっと偉大な社会的使命を果たしているのだ。」という、明らかな一つの思想である。
『罪と罰』のラスコーリニコフ、共産主義の理想に燃えたその創始者達、等々と同じ精神構造だ。
何よりもそれは、共同幻想論の思索を通じて、吉本らが、徹底的に批判した精神構造である。
 
相変わらず左翼‐右翼、リベラル‐ネトウヨ等という雑な議論がまかり通る現状を見るに、池内らの世代に、そのような戦後の思想的伝統がきちんと継承されなかったことが分かるが、その責任は我々の世代にもあるのだろう。(私自身は、吉本隆明を、謂わば「思想的流行物」として読んだに違いない世代から、一つ遅れた世代であるので、責任を感じるいわれもないとも思えるが。)
 
もしここで飯山の方が、意識して党派性に依拠する言説に傾けば、池内(ら)の思う壺になってしまう。
しかし、研究者としてだけでなく、評論家もしくは思想家としての立ち位置を確保することで、池内らのような「専門家」(あるいは共同幻想傾向の勝った言説に意識的・無意識的に依拠するイデオローグ達)にはない、在野・民間の自立した研究者としてのあり方を飯山が獲得することが出来るか。
私にとっての今後の興味はその辺にある。

物語戦は続くだろう。

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