北海道/北竜町及び札幌近郊で今はなき農村歌舞伎の痕跡を確認する小さな旅―2023年6月末。写真中心―(その1:北竜町郷土資料館)
私が行っている研究は、人工知能/認知科学系の物語生成システムを中心に、ナラトロジー(物語論)を掛け合わせた、自分で「ポストナラトロジー」と呼んでいるところのものである。あくまで抽象的なアプローチを貫き、扱う素材については無頓着を決め込むことも可能であるのだが、と言うよりそちらの方が普通であるのだが、私の場合は多分具体的な物語に対する興味が大きく、自分の「物語生成のポストナラトロジー」研究がカバーする膨大な領域に渡る「物語ジャンル」を画定することを行い(前著『物語生成のポストナラトロジー』(新曜社)の第二章に概要を書いた。詳しい記述のある論文はそこで引用している)、その中の幾つかのジャンルを自分でも調査・分析することを目標に掲げている。
何しろ全体が膨大なのでやるべきことは多いが、一人の個人で出来ることは限られており、私はかなり前からもともと好きだった歌舞伎に焦点を当て、またその他幾つかのテーマについての調査・分析作業を行って来た。最近出版した『物語戦としてのロシア・ウクライナ戦争』(新曜社)という本では、ロシア・ウクライナ戦争とそれとの関連で戦わされている「物語戦」に照準を合わせているが、一般的なものとしての「戦争」ももともと「物語生成のポストナラトロジー」が扱うべき物語ジャンルの一つに含まれていたものであり、私の研究の文脈の中では重要な検討項目となっている。
さて歌舞伎であるが、新型コロナという疫病蔓延以前の十年余り、東日本大震災後の混乱の一時期を除き、私はかなり集中的に歌舞伎座、新橋演舞場、明治座、国立劇場(大劇場、小劇場)、御園座、南座、松竹座、博多座、国立文楽劇場その他の劇場で、歌舞伎と人形浄瑠璃を中心とした演目を見て回った。その活動がコロナのお蔭で一旦頓挫し、そろそろ再開し始めていた時、これらの「大芝居」の他に歌舞伎や歌舞伎的な芸能演劇には「小芝居」もあり、またかつては存在したが今はなくなった地域ごとの演劇もある、という、前々から考えてはいたが大芝居の観劇に熱中していて時間の余裕もなかったためそのままになっていた考えが再び頭の中に萌して来るのを感じるようになった。
なお歌舞伎については、いろいろな論文や、特に英語で書いた本の中の幾つかの章で、私の「物語生成のポストナラトロジー」の観点から論じたので、興味のある方はそれらを参照してみてください。
江戸時代から現在に至る歌舞伎における大芝居は、その背後にその他の芝居や大衆芝居、地方の芝居を隠し持った、上澄みのようなものに過ぎないという考え方も成立する。地方劇場における歌舞伎の復活上演は各地で行われており、僅かに生き残っている劇場や旅館などでの大衆芝居も僅かに行われている。一つの焦点はそれらに据えられるべきであるが、もう一方で、今は既に消えてしまった数多くの歌舞伎や歌舞伎的な芝居が存在する(無論消えてしまったものの方が多い)。いろいろと考え過ぎると何も手に付かなくなるので、今回、北海道における「農村歌舞伎」の痕跡のせめて確認位はしておこうと思った。北海道はいろいろな意味で複数の文化が混在する地域であるが、歌舞伎に関しても、様々な地域から入った人々がもともと持っていた農村歌舞伎の伝統がそれぞれの知識に伝わり、伝承され、消えて行く、という興味深い経緯を辿っている。
今回の小さな旅は、そんな考えを持って、取り敢えず最も近付きやすい幾つかの歌舞伎の痕跡を見届けるためのものであった。
現状では、十分な調査を行っている訳ではないため、この小さいな旅の記録において詳しい(正しい)説明や解説をすることは殆ど出来ないので、写真を中心に見たものをほぼストーリー順に配置するだけに留める。
1.滝川市近郊の北竜町にある郷土資料館への小さな旅
2023年6月終わり、札幌駅から18時ちょうど発の特急カムイに乗り、18時52分に滝川駅に着いた。
滝川駅前はかなり広々としており、本物のグライダーが一台「展示」されていた。滝川市はグライナーの町と称されているという。
地形や気候条件からグライダーの飛行に適した土地であると、駅前の説明パネルに書かれている。
もう夜になってしまったので、その日は滝川駅から徒歩で7分程度のホテル三浦華園に宿泊した。三浦華園はかつて旅館・三浦屋として知られた伝統あるホテルである。それを伝えるパンフレットがロビーに置いてあった。8ページあり、中身が充実している。
その奥屋敷に華月園があり、多くの政治家や文人が訪れた。現在一般公開されている。
翌朝、滝川駅前から8時55分発のバス・高速留萌号に乗った。高速留萌号は札幌と留萌を結ぶ高速バスであり、早朝札幌でこれに乗ればここで同じことになったのであるが、鉄道に乗ることは私にとって重要なので、上記のようなコースを取った次第である。かつては、滝川の一つ先(旭川寄り)の深川から留萌までは留萌本線が走っていたが、今は深川から石狩沼田までに短縮され、これもやがて廃線が決まっているという。
北竜役場前手停留所に9時20分過ぎに着いた。留萌方面バス停の「立て看板」?はかなり古い。
向かい側の滝川方面バス停の方がかなりきれい。取り替えたばかりなのか。中央バスと空知中央バスというのは異なるバス会社らしい。
因みに北海道には石狩、空知などの「支庁」があるが(改組されて今この名前は正式には残っていないのかも知れない。正確には知らない)、これについてはどうも北海道の人でもあまりきちんとは認識していないようだ。因みに空知支庁の市庁舎は岩見沢市にある(あった?)。今も建物はあるので、引き継がれていると思われる。
今回の目的は、北竜町郷土資料館を訪問し、「もしかしたらあるかも知れない」(という程度)農村歌舞伎の痕跡を探ることである。今は一般に見える所に置いてないかも知れない」という予想も、実はかなり大きかった。
北竜町郷土資料館らしき建物は、留萌に向かうバスの左の窓に実は見えた。そこを少し通り過ぎたところがバス停になっていたので、下りてほんの三分程今バスで来た道を戻った。町役場がまずあり、その隣が北竜町公民館であった。その一部に、北竜町郷土資料館と北竜町図書館がある。
郷土資料館は、恐らく常時来館者がいる訳ではないため平素は閉館していて、来館者が来た時だけ開けるという方式になっていることは、ネットの情報を調べて理解していた。
実際に来て見ると、確かに郷土資料館の入り口は閉まっていたが、建物を入ってすぐ左側に事務所があり、そこにいた若い職員に見物に来たことを話すと、すぐに入り口のドアを開け、館内の説明をしながら二階の郷土資料館に案内してくれた。それが午前9時30分頃。
入り口近くの壁に、北竜町を紹介するパネルが貼ってあったので、それを使って北竜町について少し紹介する。(私自身は何かの縁があってここに来た訳では全くなく(勝手に考えた「歌舞伎」つながりならあるが)、どんな町かの知識も全くないので、詳しくは拡大してパネルの文字を読んでください。)
写真の地図にあるように、札幌から約100キロ、旭川から約50キロの位置にある。函館本線の特急に乗ると、札幌からは50分と少し、旭川までは40分弱といったところである。乗ったことのある人なら分かるが、滝川の次の深川の辺りまでは平地であるが、その辺から列車は山と川の世界に入り(滝川の手前の砂川から、滝川、深川、旭川と、特急は「川」の付く駅に止まって行く)、速度もやや遅くなり、そこを抜けて旭川の平地に滑り込んで行く。
次のパネルで分かるように、北竜町のシンボルはひまわりで、観光の目玉もひまわり畑の方にある(途中で切れていたすみません)。
次のパネルに書かれている北竜町の成り立ちを見ると、千葉県の埜原(やわら)村が「和(やわら)」という地名の由来になったことが分かる。和は今も地区名として残っている。
北海道の地名は、アイヌ語由来のものの他、移住者がもともと住んでいた土地の名を利用したものがあり、北広島、白石(札幌の白石区)、新十津川などがその例であるが、「埜原(やわら)⇒和(やわら)」と、読みは同じ、漢字は別、というパターンがあることを知る。
「北竜の文化」のパネルには、伝統芸能として獅子舞や北竜太鼓が記述されているが、農村歌舞伎についての記述はない。
獅子舞の獅子新調記念の集まりの写真(昭和2年)が展示されていた。
パネルにも書いてあるが、これらの芸能が行われたのは真竜神社であり、この神社に関する数点の物の展示もあった。次の写真はかつてあった大木の絵である。
下の写真の右側の相馬神社の額は、相馬神社系の神社であることを示すものであろうか。
真竜神社は、この公民館の隣にあり、出てから参拝して来た。
資料館には、日露戦争の頃から太平洋戦争時にかけての、多くの資料が展示されていた。
戦時中の陸軍在郷軍人のための資料と思われる。
この時代への徹底的反省が行われたのは確かなことだ。殉死した人の家にはこのようなものが配られたのか。
敗戦後の地方文芸誌。
これは何?
この辺りの人々の生活の様子を伝える展示もあった。以下は、ボタンを押すと解説が流れる。
大きな熊もいた。
鉄道も通り、札沼線の新十津川と石狩沼田の間に、碧水と和という二つの駅があったが、1960年代後半に廃止された。今は新戸津川の駅もなく、やがて石狩沼田もなくなろうとしている。
下は和駅の時刻表であるが、ここから札幌まで深川経由で乗り換えなしで行けたのか。
折角北海道の網の目のように張り巡らされていた鉄道は、特に最近急激に崩壊しつつある。民営化の必然の帰結であるが、民営と本来両立していなければならない「公共」という概念は、育つことなく現在に至っている。マスコミや田原総一朗などのマスコミ権力者が大々的に煽り、国民が「カッコイイ」ともてはやした小泉純一郎という男の時代以来、その傾向はさらに進み、やがて橋下徹といった愚劣な言説で国民へのプロパガンダを意図的に行う人間達が大手を振る時代が幕を開け、今に至る。北海道知事鈴木某は、明らかにその中の一人だ。
「攻めの廃線」は、その後、バス会社の破綻、心地よくないコミュニティーバス、病院の破綻、全面崩壊、といった経過を辿る。恐らく、このような悔過を辿ることは偶然ではなく、自民党ならぬ日本をぶっ壊すという小泉純一郎的な情熱に駆られた結果だと見做した方が最早良い。岸田文雄は表面的には時代の転換を謳うが、実際は財務省に操作された人形である。あるいは帆掛け船みたいな存在である。
さて、北竜町の「できごと」を読んでみたが、農村歌舞伎に関わることは見当たらなかった。(「遠山金四郎」という名が気に掛かる。)
こういうものはあったが。
詳しいところは分からないが、北竜町においては、「分村問題」がかなり複雑で、あるいは尾を引いているらしいことが、以下の数枚のパネルから分かる。(「分村問題」というのは私が勝手に名付けたもので、もしかしたらそういうものではないのかも知れないが。「問題」というのは、特に「悪いこと」というニュアンスを込めないで使っていることをお断りしておく。)
ところが、何と、こういう驚かせてくれる展示物があった。(この資料館は全体として、とても充実していると思ったが、こういうものを展示して来るとは、相当に凄い学芸員もしくは担当者の方がおられるものと推察する。)
本来期待していた農村歌舞伎に関する資料は今回見つからなかったが、その代わり思ってもみなかった展示物があった。それは、上の写真に見るように、浄瑠璃に関する衣裳、台本、そして上演時のものと思われる写真であった。説明として次のようなことが書かれていた。
この説明文によれば、北竜町では角力(相撲)や「田舎芝居」が娯楽として年に一度の秋祭りの時に行われていた。この田舎芝居というのが、「農村歌舞伎」に当たるものと推測される。そんな折、北竜町に移住して来た小松只平という人が水稲農業を営みつつ、他の数人の人々を育てながら、民家や農家で演芸会を開催したという。この演芸会はすなわち浄瑠璃の演芸会を意味すると思われる。この短い記述から推測するに、この浄瑠璃は人形を使った人形浄瑠璃ではなく、語りと三味線だけの所謂素浄瑠璃と呼ばれているものだと思われる(無論この資料だけからは断定的なことは到底言えないので、あくまで推測に過ぎない)。左側の写真にも、語り手と三味線弾きだけが示されている。
なお、上に角力とあるが、浄瑠璃の展示物の隣にあるのが角力の展示である。三代目眞龍山という力士の衣裳その他の角力関係の物である。
浄瑠璃と角力はこんな風に並べて展示されている。
資料館へ案内してくれた若い人に聞いてみると、その人自身は農村歌舞伎のこともこの浄瑠璃のことも知らないということであった。また、北竜町の事績はここではなく、鉄道が長く走りより発展した沼田地域の方に保存されている可能性もある、とのことであったが、これについては特に確証があるというものではないとのことであり、私自身調べてはいない。しかし何れにしても、私がここに来るための準備として読んだ資料(別の記事で紹介する予定である)にも、北竜町における農村歌舞伎のことは出ていたが、浄瑠璃のことは全く出ていなかった。まず、衣裳を一枚ずつ撮った写真を掲げる。
さらに、全体写真から分かるように、手前には七冊かの浄瑠璃台本が置かれている。うち左側は三冊の台本であり、上の本は近松の阿波鳴門か。
「登志栄」とは、語り手(大夫)の名前か?
向って右手の方には四冊の台本。
これはちょっと私には分からないが、松に鶯? 二冊目は松に鶴? それなら少し分かるが。
そんなこんなで謎ばかりが残るが、しかし「田舎芝居」が行われていたことの僅かな記述を発見すると同時に、予想していなかった浄瑠璃展示を見ることが出来、それだけでも実際に来たかいがあった。
残念ながら、二階の郷土資料館の真下にある町立図書館はその日は休館日で、人がいず聞くことが出来なかった。
しかし通路にもたくさん本が並んでいたので、ちらっと見ることだけは出来た。
帰りがけにこのような書物―『北竜町史 第三巻』―を覗いてみた。
その編集後記。
奥付に詳細な情報が載っている。
この本をパラパラとめくっていると、興味深い写真と記事が出ているのに気付いた。この近辺のかつての劇場に関する情報である。下は、赤平にあった「赤平劇場」の写真と記事。
赤平は滝川から出る根室本線で二つ目の駅である。根室本線は滝川から富良野、新得を通って帯広、釧路、根室へと続く路線である。(どうやら途中富良野から新得の間は間もなく廃線になるらしい。中曽根が断行した「国鉄民営化」という名の公共路線廃止の波がいよいよ激しく身に迫るようになって来た。この間、北海道はもとより日本のすべての「地方」では、自動車が普及し、どうせ運転間隔も疎らな鉄道やバスに乗るよりも、自家用車の方が遥かに便利だ、という生活の実態に即したものであることは全く確かな意見と行動が一般化した。しかしその意見と行動は無論比較的多数者のものであり、比較的に少数者は文字通り切り捨てられている。(「自己責任」で?)車椅子を利用するような少数者のために「税金」(?)を使うのはけしからん、というわけだ。結果として「多様性」を考慮せず、目先の利害(節約)にのみ囚われて国民全体が行動して来た結果、どのようなことになりつつあるかを、今日、我々は毎日のように目にすることになっている。しかし、政治家が推し進めマスコミが強力に煽り続けて国民を洗脳し続けた「民営化と自己責任の物語」はあまりに強力であったので、それを乗り超える新しい物語生成は絶望的に進まない。扇動ではなく先導する政治家が、文字通り命を懸けないと進まない。)
滝川市(江部乙)には永楽座という劇場があったことが分かる。由来が書かれている。
滝川市(片畑通)には、滝川劇場という美しい建物の劇場もあったことが分かる。
永楽座や滝川劇場が掲載されているページは以下の通り。
「砂川祭」の「仮装行列」の写真も載っていた。
ここだけでなく、ある時代まで、日本全国にこの種の芝居の劇場があり(「田舎芝居」などの娯楽は神社や民家でも行われた)、やがてそれが閉館したり映画館に変わったりし、そして娯楽は外ではなく内でという流れの中で、(劇場での)映画はテレビに移り変わり、そしてさらに娯楽は数人で会話もしながら楽しむという形態から、一人で楽しむという形態へ推移して行った。ただ、コミュニケーションへの志向乃至欲望は、SNSの中へ吸収されて行き、その仮想空間の中で孤独な点どうしの膨大なコミュニケーションが行わている。
民俗学の研究書を紐解けば日本の地芝居や劇場についての研究も多々あるに違いないので今後はそれらにも踏み込む必要があるが、同時に、今は痕跡しかない現地に足を運ぶことで、例えば今回の「浄瑠璃の発見」のようなことが起こることもあるのだろう。
なお、この種の痕跡は、「社会レベルでの物語生成」を探る、という私の「物語生成のポストナラトロジー」研究における一つの研究領域を成す筈である。(この辺のことは近刊の『物語生成のポストナラトロジー』(新曜社)に至る諸著作に書いてあり、最新刊の『物語戦としてのロシア・ウクライナ戦争』(新曜社)もその実践の一つである。
さて、そろそろ退散しようと出口に向かっていたところ、通路に加藤愛夫氏という作家に関する展示があった。北竜町出身で、北海道の岩見沢市に住んでいた地域の作家だという。無論一冊も読んだことはないが、地方の歌舞伎と触れることが著書の中に書かれている可能性もある。せっかくなので、紹介しておく。
今度こそ出ようと思って出口のドアに近付いた所で、今度はこの、北方領土に関する高校生弁論大会のパンフレットに捕まった。
外務大臣や北海道知事が文章を寄せている。
入賞者の文章のうち、最優秀賞を受賞した釧路の高校生松崎さんの文章が先頭に載っていた。
啓発記事も多く勉強になる。
北海道を歩いていると、北方領土に関する情報が目に付くことが多い。
今度は本当に資料館を出て、11時頃、再び出入口付近の受付に声をかけると、先程とは違う若い職員の方が見送ってくれた。ネットの中には、とても入りにくかった、といった記事もあったと記憶しているが、そんなことは全くなく、大変親切に対応していただいた。また資料館自体、規模は大きくないが、充実していて、何らかの興味を持ってみれば大変楽しめる。図書館が開いていれば、職員に質問することも出来ただろう。
この種の資料館の本来の役割は、展示して客を呼ぶことと言うより、事物を調査・収集し永久に保存することであろう。何もかも「民営化」の波によって(直接「儲からない」)文化を大事にしない風潮はここに極まっており、予算も減らされる中大変な御苦労があるだろうが、私の考えでは文化は国力や社会の力にとって最大の指標の一つであり、今後も貴重な資料を収集・調査・展示する努力を続けていただきたいと思う。町や国はそれを十分に支援していただきたいとも思う。また、私のような観光客がぶらりと寄る、ということも、それが続けば力になる。これを読んでいる皆さんも、旅行ついでに寄ってみたら如何かと思います(ここだけではなく、日本全国に多数ある郷土資料館や博物館を含めて)。
バスの本数が少ないので、途中眞龍神社に立ち寄ってから、徒歩数分スーパーココワという町のスーパーに行ってコーヒーを買い、隣の、それなりに広く長くいてもあまり気にならない感じの明るいコミュニティースペースで少し休憩し、バスの時間まで二時間あまり、一仕事しようかと思ったが、近くに和タクシーという会社があることを知った。滝川までタクシーで戻るとどうやら一万円はするのでこれはやめることにし、しかし滝川から二つ目の駅ならもう少し近いのでそこから列車に乗ることにし、電話でタクシーを呼んだ。
五分も掛からずにやって来て、駅名を正確に読めなかったので漢字で伝えると、地元の人らしい(多分和タクシーの社長さんだと思いますが)「***ですね」とすぐに出発したが、正確には聞き取れなかった。広い平地の中の殆ど一本道を東方向に快走、十五分程で、小さな無人駅に着いた。さほど辺鄙な所ではなく、周りは疎らではあるものの住宅地風であったが、駅自体は本当に小さかった。しかしきちんと待合室は整っており、壁沿いの座席には座布団が敷いてある。北海道らしく、冬の寒さに備えて、ドアはしっかりしてる。
一時間余り、駅の待合室で資料を作成したり、誰もいないホームを散策したりする。と言うのは、この駅は滝川の一つ旭川寄りであり、滝川以北は列車の本数が激減してしまうためである。甘く考えていた。さらに、ここから滝川方面に向かうつもりだったが、そっち方向の列車は二時間以上来ない。外には店の一軒もない。そこで、まだしも一時間と少し待ちの旭川方面の普通(普通しか止まらない)に乗り、旭川に出て、そこから特急で戻ろうと考えた。
妹背牛と書いてもせうしと読む。
ホームはこんな風に草ぼうぼうであったが、それなりに風情がある。もうすぐ七月になろうとする頃であったが、風はやや冷たい。
こちら側のホームが旭川方面(前方)、反対側が滝川、札幌方面である。
この後何となく写真を撮り忘れてしまったので、写真はここで終わりです。
仕事の資料となるものを撮っておこうという意識があるので、それが済むとボーっとするか仕事モードに入るかして、写真のことは忘れてしまう。
結局その後どうなったかと言うと、妹背牛駅から普通列車に乗って、川や森の地帯を多くのトンネルを抜けて旭川に出た。旭川駅は、木造建築で、茶色がかった照明、ジャズの流れる全く美しい駅であった。そこから特急ライラックに乗った。妹背牛の駅を車内から見届けようとしたが、気付かないままその先の滝川に着いていた。写真のようにホームも草に覆われているので、周りの景色と見分けが付かなかったようだ。そこからさらに、平地を快走し、岩見沢駅を過ぎ、札幌駅に着いた。
翌日から二日、札幌近郊で、農村歌舞伎の痕跡を確認する調査を行ったが、その模様はやはり写真中心で、同じタイトルの記事の「その2」に記す。
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