NHK障害福祉賞🌟2019🌟作文内容💕
第54回 NHK障害福祉賞2019
作文応募内容✨🩷✨
2019年のときに書いた作文だよ✨
題名『きらきらのなかへ』
あたしは、きらきらしたものがだいすき。太陽も、空や流れる雲も、世界に溢れているメロディやことばもきらきらしているよ。両親がつけてくれた『ひかり』って名前もお気に入りだよ。
きらきらに憧れているけれど、夢も希望もシャボン玉みたいに大きくふくらんで、ふわふわ飛んでいってしまうよ。生きるとはなんだろう?今でも答えを探しているよ。
あたしには、軽度知的障害と、広汎性発達障害と、精神疾患があるよ。
一番最初に困ったのは、小学校3年生のとき。極度の緊張にとても苦しんでいた。
自分の声も、雰囲気も、表情も、性格も、まるで赤の他人のような感覚で毎日を過ごしていた。教室はまるで舞台やステージのなかにいるみたい。
人と目が合わせられない。スピーチが苦手。鉛筆を持つ手が震える。じっと見られているような気がする。緊張のせいで勉強の声が耳に入らない。初めてのデートで食事の食べかたを気にするように給食が食べられない。クラスメイトに『普段なに食って生きてんの?』なんて心配されたり『ひかりの大きな声が聞いてみたい』なんてゆわれていたよ。
家にいるときはお調子者な性格なのに、学校にいるときはまるで別人の仮面を被っているようでとても苦しかった。
そして、とうとう中学校へ行けなくなった。そのことが理由で、ママとパパから、ことばや身体の暴力を受けた。今でも悲しい思い出のまま心に残っているよ。
無理矢理学校や教室へ行かされて、どこにも居場所がなく、いつもトイレの個室で何時間も過ごしてた。だんだん前を向くことができなくなって、学校でうつむいたまま過ごすようになり、場面緘黙症のように声を出すことができなくなった。
そんなあたしの姿を見て、ママが適応教室(不登校やひきこもりの子が行くことのできる教室)へ通えるようにお願いをしてくれた。
適応教室でも声は失ったままだったけれど、クラスメイトとジェスチャーや筆談で会話をしたり、大好きな人もできて初恋をしたよ。その同級生の男の子は18歳で亡くなってしまったけれど、今でも大切なお友だち。
クラスの子も、教室の先生も『ひかりちゃん』と下の名前で呼んでくれてね、『マスコットキャラだね』『べっぴんさんだね』『いつも笑顔だね』『制服が似合うね』とみんなが褒めてくれて、苺のヘアアクセをしていたら『いちごちゃん』と呼ばれたり、たくさん優しくしてもらったよ。
休み時間になると、教室のカーテンの裏に隠れてひとり遊びをしていたよ。カーテンにくるくるとくるまって遊んだり、空を眺めてぼんやりしたり、そよ風で懐かしさを感じたりして、楽しんでいたの。
そして、ママとパパがゆうように、チャレンジスクールの高校へ進学して、5年をかけて出席だけで、なんとか卒業をすることができたよ。
20歳になったころ、近所の精神科で、対人恐怖症、社会不安障害、統合失調症と診断をされた。心理検査を受けて軽度の知的障害であることもわかった。IQは65だった。愛の手帳を取得したよ。今の精神科の先生からは、広汎性発達障害ともゆわれているよ。あたしには障害があったから、周りに理解をされずにこんなに苦しかったんだって、ホッとした気持ちでいっぱいになったよ。
あたしはどうして知的障害なのかなって、自分のこと調べたりするよ。
小学校1年生になったばかりのころは、雑巾をずっと洗っていたり、自分の出席番号がわからなくて隣の席の子に教えてもらっていたり、図工の時間のとき先生の指示が1人だけわからなくて、隣の席の子とまったく同じ絵を描いて『どうして真似するの?やめて!』と怒らせてしまったことがあったよ。だから知的障害が生まれつきなのか、心理的要因が原因なのかは自分でもよくわからないよ。
ママが、ひかりは生き残る女だと教えてくれたよ。『小さいときから算数は苦手だったけれど、どっちが多い、少ない、お得、損、やさしさとは、意地悪とは、自分の喜びの為には何をすれば良いのか教えなくても知っているんだよね。生き残る女だね。』ってママがゆってくれたんだ。あたしは、自分にとって大切なことは分かるけれど、難しいことが、なかなか理解できなくって、大人になってから、苦労することがふえたよ。障害基礎年金の申請のとき手続きの仕方がさっぱりわからなかったり、初めて行く道がわからなくてひとりで遠くへゆけなかったり、会話のスピードがはやいとついてゆけなかったりするよ。
誰とも調和ができず、ひとりぼっちでさみしいとき、音楽を聴くことだけがあたしの救いだった。音楽は宝箱みたい。たった5分の時空の中に、わくわくしたり、感動したり、共感したり、心動かされるものがぎゅっと詰まっているのがすごい。あたしは、秋元康さんの孤独で繊細で切なくてやさしさ溢れる歌詞や、BUMP OF CHICKENの魂に突き刺さる歌詞、amazarashiの悲しみや苦しみに寄り添ってくれる歌詞、THE BLUE HEARTSのストレートに肯定をしてくれる歌詞に、たくさん助けられているよ。作詞家さんって、ことばの魔法使いみたい。歌のようなやさしいことばは、あたしを悪い道から遠ざけてくれる。歌があるから大切なことを忘れない。歌はあたしの友だち。あたしを救ってくれた歌が幾つかあるよ。
1つめは、秋元康さんの『君の名は希望』初めて聴いたとき衝撃を受けたよ。
孤独を抱えていた主人公が、君という希望に出逢ったことで、自分の本当の存在に気付き、生きていくことの幸せを見出せるようになっていく、そんな歌詞だよ。
この歌の主人公は、透明人間だと呼ばれていた。学生時代、孤独を感じながら生きてきた自分と重なって、とても共感したよ。
生きる意味は誰も教えてくれない。世の中は冷たくて厳しいけれど、孤独を知っていながら、主人公が、君という希望と出逢えたことで、“世界には価値がある”と思えた瞬間は、小さなきっかけひとつで人は変われるんだと、あたしも希望をもらった。
もし好きな異性が振り向かなくても、君という希望を信じてまっすぐ歩いて行きたい。希望とは“明日の空”なのだから。好きな人はいつだってキラキラしていて、思うとは依存でも執着でもなく楽しいこと。歌を通して気付かされたよ。これからは、好きな人に対して歌やメロディのようにやさしくなりたいと思えたんだ。
2つめの救ってくれた歌は、amazarashiの『自虐家のアリー』この歌は、実の親から虐待をされる歌だよ。
この歌の家族は海の見える家に住んでいた。けれど、ひとつのことで幸せが崩れ落ちてしまい、そこから愛が歪んでいった。主人公の女の子は虐待をされて苦しくなるたびに波の随に両親への愛を歌うように願った。最後は2人への愛を祈りながら、抱きしめて欲しくて、2人が好きだった海とひとつになろうとした。
この歌を聴いて、ママとパパのことが大好きな気持ちを肯定してもらえた気がしたよ。あたしはママとパパのことが大好き。2人は不器用なだけなんだ。やさしいときもたくさんあるよ。ママとパパは、ただあたしのしあわせを願っているだけなんだよね。だから過去のことはもう許しているつもりだよ。
『自虐家のアリー』は、被害者にも加害者にも寄り添う、やさしさ溢れる歌だよ。悲しい歌なんかじゃない。誰もが救われる希望の歌だよ。
自虐家のアリーを聴くと、愛とはなんだろうっていつも考えさせられる。きっと、人間が何かに追い詰められたとき、1番最後に残されるものが愛なのではないかとおもったよ。愛をなくしてしまうことは悲しいことのような気がした。amazarashiの『つじつま合わせに生まれた僕等』の歌の最後は、一生かけて人を愛してって歌ってる。THE BLUE HEARTSの真島昌利さんも『チェインギャング』で、愛をつかまえるんだって歌ってる。愛は複雑だけれど、だからこそあたしはこれからも無くさないでいたい。ママパパだいすきだよ。
絶望の中から希望を見出す歌が大好き。なぜなら救いがあるからだよ。あたしは誰もが救われる世界に憧れているんだ。誰もが救われるためには、寄り添う気持ちが大切なのではないかと思った。あたしにとっての寄り添いとは、共感、共鳴、理解、調和のことだよ。寄り添いはあたしのアイデンティティにしたかった。
インターネットで見つけたフランス・ドゥ・ヴァールさんという心理学者さんがあたしとおんなじ気持ちだったの。
ドゥ・ヴァールさんは動物学者さんでもあって、本を書いていて、書きたいことはずっと同じこと。それは動物たちには見逃せない共感やエンパシーがあるということ。その共感は動物社会の重要な場面でおこっている。だったら人間社会はもっともっと共感にもとづく社会になってもいいのではないかということを訴えているそうだよ。
あたしも、寄り添いは世の中にとって、とても重要だと思う。なぜなら、誰もが傷つきながら生きているからだよ。人間は傷ついていればいるほど、弱ければ弱いほど、更に誰かを傷つけてしまう生き物なんだと思った。傷ついている人には、背景や、症状や、理由が必ずある。傷つき、傷つけ、繰り返し、そうやって世界はまわる。だから共感する気持ちは救いだと思う。だれかが苦しんでいるとき、追い詰められているとき、救いはただひとつだけ。共感なんだ。
あたしにとって、音楽だけが寄り添ってくれる存在だよ。だから音楽を聴くと、とても救われるんだ。
人は、加害者や被害者になるまえに、傷ついている人間に、寄り添いをするべきだと思う。寄り添いをすれば、犯罪はなくなるって本気で信じているよ。
共感が大切だという本を書いている人がいたなんて、とても嬉しかったよ。あたしには知的障害があって難しいことがわからない。感覚だけでいつも生きているから、フランスドゥヴァールさんのような社会的や科学的に解明できる頭の良いひとはすごいなって思ったよ。とても羨ましいよ。
でもね、世の中のあらゆるカタチの苦しみを分かち合っていたら、人間はどうなってしまうのかな。それは果たして人間と呼べるのかな。そんなことばかり、いつも考えているの。小学生の頃から、極度な緊張のせいで自分が自分でいないような感覚でずっといたのだから、自分というものがよくわからなくなってしまった。自分の感情も麻痺してよくわからない、自分の状況も気づけないときがある。共感してばかりで自分の気持ちを叫べなくなってしまったんだ。
そんなあたしを救ってくれた3つめの歌、秋元康さんの『暗闇』この歌の主人公は、田舎で暮らしながら何かをやり残している悔いがあった。想像や理想のなかでは、傷つき狼狽えながら、無様でもいいからありのままの姿で真っ直ぐに生きていたいと思ってる。けれど現実では、詩人のように理想的なことばかり考え、自分の思うように生きてはいなかった。
夢を追いかける星たちは、きらきらしていて輝いている。主人公は、自分自身に絶望し、消えてしまいそうな心でいた。このままでは周りの星たちのように光ることができないまま終わってしまう。主人公は始まってもいない。暗闇の中で苦しんでいた。
都会で暮らす友だちは窓しか見ておらず、孤独を感じながら泣き言を誰にも言えずにいた。
主人公は、故郷を捨ててなんて絶対に暮らしていけないと思った。なぜなら、水平線(自分の基盤)が見えなければ自分自身を見失ってしまうから。
ひとりの夜は、詩人のような綺麗事ばかり考えて悩んでしまう。そんな想像だけの愛は、都合の良い思いやりばかりで、説得力がない。都会に住む友だちや、守りたい大切な人たちと、理想だけで語ることはしたくない。取り繕ったことばを並べても虚しい。だから、暗闇のその中で目を凝らさなきゃいけない。朝がやってくるまでに、もやもやした思いは全部捨ててしまおう。思い悩む自分へと届くように海に向かって叫びました。
この『暗闇』の歌が、そっと寄り添ってくれたよ。
あたしは、生きる希望を失って疲れきっていた。部屋にひきこもって、ときどきレジンアクセサリー作りや好きなことをして。窓から空を眺めることがすき。いつもぼんやりとしているの。都会で暮らす孤独な友と自分が重なり涙がでたよ。
夢や希望はあるのに、生きる気力が湧いてこなかった。
誰もが傷つき生きている。故郷(ママとパパ)を捨ててなんて絶対に暮らしていけない。今でもずっと大好き。けれど、想像だけの愛の世界は都合の良い思いやりばかりで説得力がない、という歌のことばを聴いて、傷つき狼狽えながら生きることから、現実から目をそらしちゃいけないんだと思った。故郷へ泣き言を叫び、苦しいときに苦しいと叫べるような、ありのままの姿も大切なんだね、と気づけたよ。
寄り添いもあたしにとってとても重要で大切だけれど、それと同時に自分の気持ちを叫ぶことも大切なことなんだね、と思えたよ。
ママやパパを愛してるって想像のなかで呟くよりも、ママやパパが、あたしの弱い部分や、泣き言も、受け止めてくれるようになったらいいな。
他にも救われた歌があるよ。秋元康さんの『月曜日の朝、スカートを切られた』『夜明けのコヨーテ』という歌。
『月曜日の朝、スカートを切られた』の歌は、主人公の女の子が通学電車で誰かからスカートを切られてしまい、わたしは悲鳴なんか上げない、誰もが傷つきながら生きているから。という気持ちが込められている。人々は被害者のことを思うと、この歌を批判的に捉えるかもしれない。それもやさしさだけれど、あたしはこの歌の加害者に自分の背景を見た。あたしも大切な人を何度か傷つけてきた。理由は、それだけの傷を受けて生きてきたからだ。学生時代、誰からも理解をされずに冷たいことばたちを浴びせられたことや、両親から暴力を受けたことで、心はぼろぼろになった。今では好きになった異性に対して試し行為や自殺未遂を繰り返していて、誰かを傷つけることでしか生きてゆけない身体になった。
この歌を聴いて、ママとパパのことを思い出した。ママやパパも傷つき悩んでいた。あたしのことをあんなにも分かろうと愛してくれた。だからあたしはママとパパが大好き。それが強さだと、この歌はあたしを讃えてくれた。
人を傷つけることは、してはいけない。自分が傷ついたからといって、誰かを傷つけてもいい理由にはならない。傷つき傷つけ繰り返すのは、人間の本能だ。憎しみや恨みの連鎖。悲しいよ。そんな自分や世界が大嫌い。だから、一人一人を肯定できる自分になりたいと思ったよ。あたしは、寄り添いや共感を世の中に広められる人になりたいな。
『誰もが何かを切られながら生きている』という歌詞にもあるとおり、スカートを切られたことは比喩表現であり、いろんな状況に当てはまるとおもう。だからあたしはこの歌にとても共感したよ。共感だけが世の中にとっての1番の救いだと信じているから、寄り添ってもらえるだけで人は救われると信じているから、この歌は素晴らしいんだ。この歌のPVは最後にサイレントマジョリティーという歌のステージに繋がる。『yesでいいのか?noと言いなよ!』というメッセージへと繋がる。
続いて『夜明けのコヨーテ』この歌の主人公は、生きる意味を見失ったまま、野心も欲望も夜空の流れ星になって消えてしまいます。いつかの思い出で時間が止まったまま心はいつも飢えている。自分はこれからどこへ向かえばいいのか?悲しみを忘れるか?登った太陽が問いかけます。
生きるとは、戦いを恐れずに、夢を追いかけること、愛を恐れずに声をあげて、牙を向き睨み、自分を信じて叫ぶことだと、主人公は気づきました。気持ちを叫べなかったあたしにとって、とても勇気をもらえたよ。愛を知るべきだ、泣いていいんだよ、ということばには涙がでたよ。
この歌の1番大切だと思うところは、死んではいけないということばがあるところ。あたしはリストカットやオーバードーズがやめられない時期があった。死んではいけないというフレーズを聴くたびにとても勇気が湧いてくるよ。
生きるとは、傷ついている現実から目を背けずにありのままの姿で叫ぶことも大切であり、欲しいものを見つけて夢を追いかけ続けることが、生きるチカラに変わるのだと、歌を通じて知ったよ。
そして、あたしにも、生きる希望が湧いてきた。あたしの夢は、たけいみきさんのようなイラストレーターになること。叶うかどうかわからないけれど、グッズを出したり、大好きな歌の歌詞を絵本にしてみたい。そして、すてきなお嫁さんになることが夢だよ。
初恋の男の子が亡くなる前に『あたし、死にたい』と相談をしたことがあったよ。男の子は『死んだら、残された人がどれだけ悲しむか。』と言ってくれた。あたしは、ことばのチカラが大好き。ずっと忘れないよ。この言葉を胸に、これからも生きてゆく。
そして、人の中でキラキラ輝く、ひかりになりたいんだよ。
おしまい🌟
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