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片田舎に住む20代後半の1ペルソナ。大都会で育った子どものコミュニケーションの傾向

私は、3歳から18歳は上海という大都会で育った。

そんな子どもは、人とのかかわりにおいてどのようなペルソナになるのか?
その1例を書いてみようと思う。

上海は、あらゆることが目まぐるしく変わる。
私がいたたったの15年の間ですらも、街の様子は豹変した。

家の裏は古い建物が密集し、正直きれいとは言えない小汚い路地裏だったのが、今では歴史的建築物を残し、一掃され、監視カメラのたくさんついたこぎれいな街になっている。
そんな豹変してしまった街に対して、一時期は帰る故郷がなくなったようにかんじて嘆いていたこともあった。一番悲しいのは、帰っても、よく裏路地で食べていた屋台食ももうありつけないことだ^^。だけども今ではそれすらも私のアイデンティティとして受け入れている。

そう。そんな環境で育ったものだから、変化すること、というのは私にとって当たり前で、変化することを恐れないし、ついつい変化を促したくなってしまう。なにしろ、私には帰る場所がないのだ!(わははは!)
(どのくらい変化を恐れないかというと、日本に来てからの8年間で5回は引っ越しているくらい)

私は、3歳のころには知人のいない土地に引っ越したから、身の回りにご近所づきあいというものがなかった。

なおかつ、言葉の通じない異国の地なので、余計に人とかかわる機会が少ない中で育った。
また、3歳というと、ようやく思ったことを文章にすることができ始めて、言葉を積極的に使って他人との意思疎通をする時期だ。その過渡期に、いきなり全く何をゆっているのかもわからないし、何も通じない世界に来たのだから、大混乱だったに違いない。

そんなわけで私は、地域というものに関して、家族以外の知り合いとのつきあいがなく、田舎の地域特有の人とのつながりを、全く知らないで育った。
人とのつながりを知らない子たち。これは別に海外育ちに限らず、今時の、都会で育つZ世代くらいの人には皆そのような傾向があるのではないのだろうか。

私の場合はそれに加えて、日本人の当たり前に持つ共通意識も知らずに育った。

大学は家族を離れ、一人北海道で生活し始めた。いろんな場所に興味があって、つてでいろんな農家さんを訪問した。
そうして、いろんな場所に出向いたその延長線上で、仕事先を見つけることもできた。(今考えてみても、とんでもない新人を受け入れてくれた会社には本当に感謝している。どのようにして働くことになったかはまた今度書こう。)
仕事を通して、組織の1プレイヤーとして、また、チームとして働いたときに初めて知った。チームで1つのことを目指す時の日本人ってのがとにかく素晴らしいことを。

地方では、地域一帯がお互い様でいろんなことがつながって、成り立っている。それが私にとっては新鮮で衝撃的な事実だった。都会は、個人対マニュアルとのコミュニケーションであり、パーソナルなコミュニケーションはなく、すべてが一人で完結する。
自然とのつながりすら少なく、全部が一人の世界だ。
そんな、孤立していた一個人が、会社に入ったことによって、様々な年齢の他人を知った。また、組織が持っていた地域の繋がりを通して、地域の人とのつながりを知った。

私は人見知りで基本静かで、何をするにもタイミングを計りすぎて挨拶するチャンスも逃してしまうような子だった。ミスをしてしまったら言う時はバツが悪いし、いろんなことをなんで言わなきゃならないのかも知らなかったし、とにかく知らない人とのコミュニケーションが少なかった。それがひたすら報告連絡相談が大事な仕事内容だったこともあって、コミュニケーションの意味を知った。会社は、間違えても怒らず、正しく対処してくださったおかげで伝えることができるようになった。
また、田舎の地域特有の人とのつながり、というのは例えば、
散歩してて隣の人に遇ったら、あいさつする、とか、
なにか困りごとがあれば周りに相談すればいいし、お返しもすればいいこと、とか、
何気ない道端での会話から、いろんなことが解決したりすることとか。
それが当たり前な人からするとたわいもないことなのかもしれないが、都会では、近所の人に遇ってもあいさつしないし、みなかったふりすらする。だからこそ、そんなシンプルなことから、それができることがステキだと感じる。

そんなわけで、
どこか孤立していて、自分の世界を持っていて、飄々としている20代はこのようにして出来上がる。

そんなナリニは片田舎で子どもと自然と人々を取りつなぐ仕事をしながらゆるーく生きてるよ~





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ナリニ
いつも応援ありがとうございます。 これからもよりよい社会の創造に尽力していきます。