ほぼ無料日記:お金の話をしよう
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この記事ではこのルールの狙いについてお金を切り口として書いています。
現代の消費とは何だ。
「消費とはお金を払うことである」という枠で考えよう。
「お金を払って何かを得る」という表現に立ち止まって考えると、「お金と何かを交換する」だけでなく「お金を払うという行為と何かを交換する」という側面もあることに気づく。
これらは購入する人の姿勢の違いとして捉えられる。
なんてさらっと書いてみたが、実は「お金」の話が「姿勢」の話につながるということは実は面白いことなのではないかなんて思っているわけだ。
noteを見ているような人ならば、姿勢の話はすんなり理解してもらえるんじゃないかと思う。
ここで投げ銭の話をしよう。
投げ銭という形態の是非や個人的な好き嫌いは置いておいて、基本的には「任意の後払い」と捉えて良い。
つまり、払おうが払うまいが得るものは変わらないというのが基本である。
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ここで派生する話として、
「いや投げ銭によって次以降のコンテンツの良し悪しに影響が出るので、これは後払いの姿をした前払いなんだよ」
「投げ銭は当人同士のお金と価値のやりとりだけでなく周りへの影響力も秘めており、これこそが投げ銭の価値だ」
といった話もできるが、その話はちょっとずれるのでとりあえず置いておこう。
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乱暴な言い方だが、投げ銭で買っているものには「お金払うってキモチイー」という感覚が含まれているのではないか。
もちろん作者への感謝の意なりなんなりの動機が主であり、この感覚は従なのだろうが。
これはこれでお金を軽やかにとらえたとても気持ちのよい態度ではあるのだが、少し気持ち悪さも感じている。
端的に言えば、本当の価値ってお金じゃないんだぜと言いながら払っているものがお金だからだ。
払うことが良いことで、払わないのはダサいことで、払えない人はうふふかわいそうね。というように見えてしまう。
いや、否定はしない。これが本来のお金のあるべき姿なのかもしれないとすら思う。
でも、だったらお金はもっと遊べるポテンシャルを秘めているんじゃないかと思うのだ。
さて、ここでこの「ほぼ無料日記」のことを考える。
ここで僕が売っているものを表現するなら「体験」だと思っている。
ルールを素直に読めば「お金を払ったらすぐに読めるよ。待ってたら無料になるかもね。」であるが、購入を考えるとすぐに次のことに気づくだろう。
自分がこの記事を買うということは、大多数の人の読む機会を奪う事だ。
また次の瞬間にはこうも思うはずだ。
でももしもう買った人がいたとしたら…
自分がこの記事を買っても誰の機会も奪わないし、結局自分はお金を払わないと読めない。
あ、このルールいいね面白いね、と思って投げ銭感覚で購入ボタンを押そうとしたそのとき、あなたはこのジレンマに襲われるわけだ。
オイオイ作者に感謝を表そうと思ったら、作者に不利益があるじゃねーか、と。
この感覚は「お金払うってキモチイー」に待ったをかける。たぶん。
まさかこれが消費の次のモデルになるなんていうことは考えていないが、お金とそれを取り巻く要素について考えるきっかけになれば良いと思っている。
※なお「作者に不利益があるじゃねーか」については杞憂です。
僕はここで何が起こるかを体験したいのですから、記事が売れようが売れまいが、見られようが見られまいが100%の利益です。
記事を買おうとした時、買った時、7日経って記事が無料公開されたのを見た時、有料のままだったことを確認した時、記事にコメントやスキが付いている時、どんな感情が僕やあなたに起こるのかを体験しましょう。
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