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【往復書簡】9通目(シモダさん)

シモダさま

何処かの誰かの指示に従う形になるといざという時の責任の行き場がなくなってしまいそうで、良くも悪くも自己判断の結果だと思えるように選択をしてきたつもりです。

 これ、ほんと大事ですよね。以前妻が、高校時代の恩師が言っていたこととして、「【自由】とは【自ずからに由る】ことである」と教えてくれたのを思い出しました。自分で決めて自分で責任を取る、これが自由なのだと。シモダさんもそうやってお店の再開のみならず種々の取り組みを決めて篤行しているその様子が聞けて嬉しかったです。(ちなみに「立志篤行」が僕の高校の校訓でした。)

 ひつじがとその周辺の未来の話はまたお店に行けたときに、もしくはお手紙がそちらに振れたときにでもまた。

 さて、

安心感を得るためオンラインに用意されているものは「匿名性」であり、一方リアルな場に存在しているのは「覚悟」であるとのことでした。

 これ、すごく腹落ちする表現でした。というのは、近いことを考えるきっかけになった場面が過去に2つあったからです。

 ひとつはとあるアーティストとの雑談の中で「生きてるって危険だよね」という言葉を聞いたこと。ニュアンスとしては、「生きてるから病気もするし怪我もするし死ぬ。逆に、完全に安全だったらそれはたぶん死んでる」というものでした。ここから「場の共有」を捉えると、「死の危険の共有」ということになるのかなと思います。隕石とかテロリストとか疫病とか。危険のほとんどは身体を介してやってきますから、場を共有しているということは相当なレベルの危険を共有していることになりそうです。

 もうひとつは、ダンスと身体性に関するワークショップの中で「もしいまこうして話している私とあなたたちとの間に薄いガラス板が一枚でもあれば、たちまち私の存在感は薄れますね」という一言でした。彼はその理由として「相手の存在感というのは、相手が自分に危害を加えられるかどうかで測れます」と話しました。ここから「場の共有」を捉えると、「危害を加えられる可能性の了解」または「危害を加えないという合意」ということになるかと思います。

 さてこれらを踏まえて改めてオンラインとオフラインの空間の共有について考えてみると、オフラインの場での安心感とは、「身体的には危険(殴ろうと思えば殴れるし、不慮の事故で死にうる)だが、その危険を共有することで心理的な安心を形成している」という、なんだか危うい釣り合いがイメージされる解釈になってしまいました。そしてオンラインの方は、「身体的には互いに安全だが実質死んでいる」という、なんだかディストピアな解釈になってしまいそうです。

 と書いてはみたものの、オンラインの優位性というのもこの裏返しにあるような気もしています。オフラインで共有するものが「危険に対する覚悟」であれば、オンラインで共有するものは「不可侵の前提」なのではないでしょうか。どうあがいても相手に触れることはできないし、相手が自分とのコミュニケーションにどれだけ意識を割いているかも知ることはできない。そしてそれは相手も同じ。だとしたら、実はすでにそれを前提とした会話のプロトコルや気遣いが生まれているのでは、と思います。

 事実として、(オンラインでの)共創において人はこう振る舞うべきだ、という声明はいろんなコミュニティで宣言されており、それは単にオフラインの置き換えではなく、オンラインにはもちろん、オフラインでのコミュニケーションに逆輸入してしまいたい内容で溢れています。

 例えば:

 ちなみに、オンラインに厚いと書いてくださっていますが、多分僕は、オンからオフへの移行期間の世代なんじゃないかと思っています。メディアテクノロジーに日常的に触れていて、だいぶ慣れてはいますが、やはり多くの場面でオフラインの方が便利だと感じることはあります。

 そのへん、もっと若い世代(いわゆるデジタルネイティブ?)に聞いていたいところではありますね。オンラインでの存在感についてとか、オンラインとオフラインの善し悪とか。

岩谷






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