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批評『負けヒロインが多すぎる!』 第1話
ヘッダー:https://makeine-anime.com/special/download/
はじめに
遅ればせながら『負けヒロインが多すぎる!』について話していきたい。もちろんネタバレを含みます。第1話~第4話までのアニメと、原作第1巻に触れながら気になった箇所についてテキスト化していく。
今回はとりあえず、第1話の部分。個人的に気になった箇所を批評していこうと思う。
第1話「プロ幼馴染 八奈見杏菜の負けっぷり」
要約
草介の幼馴染、八奈見杏奈は明確な告白をしていないが実質的に振られてしまう。そんな場面に遭遇した温水が徐々に八奈見と関わりを持っていく。他にも、小鞠、焼塩など八奈見と似た境遇にある「負け」を彷彿とさせる人物紹介をする。そして、八奈見は振られたということを改めて実感し、涙を零すのであった。
とまぁ、こんな感じだと思う。
所感:まず、面白い
原作とアニメでは多少、違いがある。例えば、文芸部に関連する話、八奈見と焼塩に関する流れなど。ただ、第1話の出来は素晴らしいと感じた。構成も上手い。各キャラクターを紹介しつつ、どこか「負け」ほ彷彿させる。つまり、第1話以降のための布石も行いつつ、必要最低限の紹介はする。いわゆる、三幕構成の第1幕で行うべきことをしっかりと果たしている。
惜しい点:八奈見と焼塩、親しかったのか
これはアニメの話ではなく、原作の批判になる。アニメでは焼塩の初登場(*1)するタイミング(17:20あたり)で八奈見との対話がある。しかし、このシーンは原作には存在しない。これが非常に惜しい。
(*1):焼塩の初登場
これは、厳密には間違いである。「休み時間、自分の座席に誰かが座る」これを避けるために温水は様々な手段を実施する。この場面(第1巻:p.25)、原作において、温水の座席に座っているのが初登場である。ただし、会話はない。この場面について、アニメでは焼塩は映ってすらいない。
八奈見と焼塩:対話のシーンの意味について
この対話シーンでは、綾野と朝雲の関係性を憶測で話し合う。八奈見と焼塩で「ただの、友達じゃないかな?」と意気投合して盛り上がる。ただし、文脈を考えると、そんなはずはない。綾野と朝雲は恋愛関係の可能性があるが、「出会ったのが最近」という根拠で「ただの友達」という結論を導いている。これは、希望的観測であり楽観主義的だ。
つまり、このシーンでは「焼塩が恋愛で負けかけている……」ということを示しているだろう。そして、八奈見がこの事実を知っている。この要素が原作にはない。
第1話のラスト
第1話のラストでは八奈見が屋上でグラウンドを眺めている。その視線の先には焼塩がいる。県大会にも入賞した事がある焼塩檸檬。八奈見は「凄いなー、檸檬ちゃん」と悲壮感を漂わせて言葉を漏らした。次の瞬間、輝かしい水の粒子が風に舞った。
「檸檬ちゃん、走ってるなーって思って見てたら。私、振られたんだなーって」
「振られたって、頭じゃ分かってたんだよ。でもね、身体が分かってなかったんだろーね」
このセリフはエモすぎる。八奈見と焼塩の対話のシーン、「焼塩が恋愛で負けかけている……」これが上手く活きているからこそのエモ。焼塩は好意を寄せている綾野がいる。でも、綾野は別に好意を寄せている(かもしれない)朝雲がいる。
つまり、焼塩は現在進行で走り続けている。けど、八奈見は振られてしまい、立ち止まっている。図らずとも焼塩によって、立ち止まっていることに気づいた八奈見は好きな人を追いかけることもできない悲しみで涙を零した。私の恋愛は終わってしまったんだと、初めて実感する。
という解釈をアニメではすることができる。しかし、原作のこの時点では八奈見と焼塩の接点はない。アニメを見たことがあればすんなりと、読み進められると思うが(私もこれ)、原作単体だと八奈見が感情を揺さぶられるほどの要素を焼塩は持っていない。正しくは、八奈見視点では知らされていない。だからこそ、原作は非常に惜しい。逆に、アニメでは脚本、構成が優れているゆえにここまで完成度が高かったと思われる。
温水和彦はモブキャラなのだろうか?
アニメを見た人なら、温水の存在感の薄さに覚えがあると思う。実際に、ライトノベルでよくあるヒロインとの恋愛に発展していない(アニメと1巻からの判断)。ただ、冒頭で温水はオタクっぽいライトノベルを読むし、時折、オタクっぽい挙動をする。
アニメと原作との違い:オタク温水
アニメでは温水のオタクっぽさはほとんどない。ラノベを読んだり、新刊をチェクしたりetc…。ただ、原作においては詳細に書かれているシーンが多い。地の文でも同様である。
つまり、アニメでは温水はモブキャラに徹していると言える立場であるが、原作においては、そこまでモブキャラと断言できない。情緒の揺れなども、恋愛に発展しかねないこともあり、原作では非モブキャラ寄りだと体感する。
ポッとでのモブキャラなのだろうか
もし、俺にそんな青春があるなら
涙に暮れるヒロインを目の前にしたらな
俺がラノベの主人公なら
そんなとき
なにを思うのだろうか
第1話の最後に上記のナレーションがある。原作をすべてチェックしていないため、原作にも同様のセリフがあるかもしれない。
温水は、多くの人が想像、体験する高校の綺羅びやかな恋愛を諦めている。ゆえに、せめてモブとして涙にくれるヒロインを助けられればと考えているのではないだろうか。
「負けヒロインが多すぎる!」は「第15回小学館ライトノベル大賞 ガガガ賞受賞」をしている。このときのタイトルは「俺はひょっとして、最終話で負けヒロインの横にいるポッと出のモブキャラなのだろうか」。見覚えがある人もいるだろう。これは、アニメ最終話のタイトルでもある。
そもそも、最終話で負けヒロインの横にいるポッと出のモブとはなんなのか。この文章から推測できることは、「恋敵に負けて振られたヒロインがいる」「負けヒロインの横にポッと出のモブがいる」。考えてほしい、最終話で何故、ポッと出のモブキャラがいるのか。しかも、負けヒロインの横に。
結論を単刀直入に述べる。『主人公と複数のヒロインがいて、恋愛に敗れた負けヒロインがいる。この物語はハーピーエンドだが、不幸になった負けヒロインという存在がある。それを払拭するために、最終話で負けヒロインの横にポッと出のモブ(新たに好意を寄せる等)で無理くりハッピーを演出している。』このような意図が、原題には込められていると考えられる(多分)。
結局、負けヒロインは「神の意図」で無理に幸福に押し込められている。だからこそ、「涙にくれるヒロインを目の前にしたなら」と温水は神に反逆しようとしている。「なにを思うのだろうか」これに関しては、明確に答えが出ていると思う。アニメ、第4話のラスト。原作、第1巻のラスト。温水が負けヒロインである八奈見を振った草介への抗議。これが、温水の思ったことだろう。
おわりに
総評としては、素晴らしい。ただし、原作には改善の余地あり。アニメの尺にあわせて削っている部分は数多くある。ただ、そのどれもが最適である。誤解を生みそうなため、補足するが原作の無駄をカットしたという意味ではない。アニメの雰囲気を作るために、悪影響になりかねない部分等を削った。その結果、原作とは別の雰囲気を持つ「負けヒロインは多すぎる!」という作品を作り上げた。
今回、記事にしたのは第1巻の87ページまでの内容である。長くなってしまったが、楽しんでもらえたならば幸いである。意見、感想などがあれば気軽にコメントしてほしい。そもそも、この記事は思い立って数時間で書き上げたものである。ただ、間違いなどはないように留意はした。とにかく、このテキストが何かしらの役に立てばこの記事もそれが本望であろう。