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実家日記:放蕩息子の帰還
新約聖書そろそろ読むかな、という気分になっている四四田です、こんばんは。
いろんな記事に混ぜ込むようにしてぽろぽろ呟いているけれど、実父が倒れた。
命に別状はないことがわかって数日が過ぎている。
ここ数日、僕は、実父の家に仕事の休みのたびに行き、実父の生活と体調を整えるべく対処している。
ので、結果的に僕は今休日というものが存在しない事態だ。おかげで僕自身の体調はMAXに悪い。
とはいえこういうのはタイミングだから仕方ない。
僕の兄弟は、もともと自分たちの実父の荒れた(あるいは荒れているであろう)生活を、自業自得と言って相当に腹を立てていた。
僕もある程度まではその自業自得論に賛同できる。
なぜならば、僕ら兄弟が実父と暮らせなくなったのは兎にも角にも彼の暴力が原因だからね。これは致し方ない。
それでも実父倒れたの報せに対し、僕と僕の兄弟は集まったわけだが。
兄弟は、僕らの離別の原因を作ったのは自分だということを実父に自覚してほしいと対話を始めている。
僕はそんな自覚を彼がする日は来ないし、おそらく実父にそのようなつもりはないし、実父に見えている世界と僕らに見えている世界を、同一のものにすることは難しいと思っているので、そのあたりの欲求はとうにない。
ただ、彼らが暴力のない会話をしているのは良い光景だなと、僕はちょっと離れたところでその様子を見ている。
それで頭をよぎったのがルカによる福音書「放蕩息子のたとえばなし」だ。
僕は、とくにクリスチャンではないし、
聖書を読んだこともないので、説明は割愛する。
いつも通りWikipediaでも読んでくれ。
放蕩息子のたとえ話の中の「兄」のようなことを、僕の兄弟も実父に対して言っていた。
そしておそらくそれはなくなったわけではないのだろうが。
彼は失われていたが見いだされた
僕の兄弟と僕の実父を見ながら、
僕はこの言葉について、今は考えている。
ちなみに、聖書への興味はあるが僕自身は無宗教なので悪しからず。
その上で、縁あって勤めているのは在来仏教寺院なのではあるが。