「良い夜だったよ」と言いたい夜のこと
N響の夜@サイゴン・オペラハウス
何かをきっかけに、色んな記憶が芋づる式に蘇る。
なぜか、蘇る記憶の大半は夕方〜夜にかけてのものばかりで、さらにその多くが狭義においても広義においても、移動の途上にあったりする。
そんな、「良い夜」のひとつに、今夜のことが加わるはずだ。
2018年9月5日、史上初めてベトナムで、NHK交響楽団の公演が開催された。
2曲のチャイコフスキー、間に1曲のラロ、そしてアンコール。
普段あまりオペラハウスに行かない、ベトナム・サイゴン在住の日本人だが、そこに集まる人たちはなんとなく顔見知り、な人たちが多いようだった。少し奇妙な感じもするが、それは結果としてN響ベトナム初公演というイベントにふさわしい、祝祭的な雰囲気を高めていた。(夜のオペラハウスに集まる人たちの華やかで賑やかな雰囲気こそまさに、往時のサイゴンを偲ばせるんじゃないか)
コンサートの評価、みたいなことはさっぱり分からないけれど、個人的には、それが誰かにとって「良い夜」だったなら、そこには異論なんか無くていい、と思う。
チャイコフスキー:〈エフゲーニ・オネーギン〉から ポロネーズ
ウィーン国立歌劇場での夜・泡盛タオル
3年前の秋、ヨーロッパの行く先々で音楽と美術にひたすらに浸っていた旅の途中に訪れたオーストリア。数ユーロで買ったウィーン国立歌劇場の立ち見席で鑑賞したのは、たまたま「エフゲーニ・オネーギン」だった。音大の学生、地元のマダムや普通のおじさん、観光客。日本では高尚な芸術の代名詞みたいなオペラがこんなにもコミュニティに浸透し、人々を集めることに心底感心してしまった。英語の字幕にも一苦労し、終演後にWikipediaであらすじを調べて確認する始末だったけれど、オペラハウスに人々が集う、そんな夜の端っこに潜り込むことができただけで高揚していたのを覚えている。
(余談だが、立ち見席の場所取りは、ポールにスカーフなどを巻きつけて行う。そんなアイテムを持っていなかった僕は、泡盛ブランドのロゴが大きく印字されたタオルで代用した。開演直前に戻るとそれは、さすがに異彩を放っていた。少し反省しています)
そんなわけで、この華やかで軽やかな曲に包まれてながら思い出すのは、ウィーンで過ごした夜とか性善説なシステムのメトロ、ホテル・ザッハーお決まりのザッハトルテだった。
ラロ:スペイン交響曲
三位一体のスペイン的風景・
ラロがパリの街で出会ったスペイン出身のヴァイオリニスト、サラサーテのために作曲したらしい。かつてはフランスの植民地だったサイゴンの地で聴く、フランス人作曲家によるスペイン交響曲。頭でっかちに選曲の理由などを考えていたら、第4楽章あたりからのヴァイオリンのソロにノックアウトされた。
そんな中で、2年前にバルセロナ〜アンダルシアの各地を巡ったときのことをぼんやり思い出した。漠然としたスペイン的イメージを抱いて訪れたこの国の、良い意味でイメージを裏切らない街並みや喧騒。オリーブ畑と青空と、その中に点在する白い建物。バスの車窓に流れるこの青緑白の風景を勝手に、三位一体のスペイン的風景、などと呼んでいた。セビージャの市場。居並ぶ生ハムやサラミやその他無数の食材に、やはり思考停止に陥ったことがあった。店先のスツールに腰掛け、量り売りでどんどん売れてゆく食材を横目に、肉とワインを貪る。ありきたりだけれど、異国に思いを馳せることは、時には当地での景色以上に美しく思い出される。
チャイコフスキー:交響曲第4番 へ短調
広島のライヴの夜
幕間で眺めたパンフレットにはこう書いてある。
「作曲当時、チャイコフスキーは実はプライヴェートなことで失意のどん底にありましたが、幸福と平安が訪れることを夢見つつ、創作に打ち込みました」
そんな前情報の印象とは裏腹に、導入部分はとても可愛らしい音色で、多層の紙芝居みたいな楽曲に思えた。徐々に激しさも垣間見えてきて、指揮の井上道義氏の動きも激しさを増す。音楽だけでなく、オーケストラ全体の激しさに引き込まれてしまう。
引き込まれてはいるものの、普段考えないようなことに考えが及んで(飛んで)しまうのが、クラシックのコンサートでいつも不思議に思うところだ。作曲者が個人的な事情を抱えていたと聞いて尚更、自分のプライヴェートなことと重ねてしまいがちになるのかも知れない。
とにかく今日は、チャイコフスキー交響曲第4番を聴きながら思い出していたのは、なんだか恥ずかしい話だけれど、当時の恋人と行った広島でのあるライブった。それは、そのアーティストにしては奇跡的な小規模ライブで、親密な雰囲気に満ちていた。タクシーで滑り込み、ライブに酔いしれた。店をはしごして広島の街で食い倒れ、夜風に当たって歩いて帰る。また行きたくなった、というより戻りたくなったのかも知れない。
J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ
第2番ニ短調より "サラヴァント"
帰路・スウェーデンのフルーツビール
公演終了後のロビーで、数名の顔見知りと挨拶を交わし、帰路に着く。たまたまオペラハウスで会う顔見知り、これじゃまるで文化人だ。今日のアンコール曲の解説が出ているけれど、満席のオペラハウスのロビーは狭すぎて、写真を撮るに留める。帰ってゆっくり読めばいい。
話したくなっていた人と少しだけ電話をした。どうしてもお酒が飲みたくなって、近くのコンビニエンスストアに行き、瓶のフルーツビールを買った。ラベルを見ると、Made in Swedenとある。15年前も3年前も、スウェーデン・ストックホルムを訪れた時には見たことのないビールだった。そして、3年前のストックホルムの夜も、やはりひたすら歩いていた。「夜は短し歩けよ〜」みたいだ。
解決すべきことは常に山積していて、自分の不甲斐なさにうんざりすることも多々ある。間抜けな失敗をしでかしたり、訳もわからず虫の居所が悪い夜だってある。
ここまで、演奏された3曲を聴いて思ったことを書いてきたけれど、実は一番痛切に刺さったのは、ヴァイオリン、クリスティアン・テツラフ氏のアンコールだった。数分間のアンコールなのに、オペラハウスの中は強烈な緊張感で満たされていて、演奏が終わっても一瞬誰も動けずにいた。あまり大げさな言い方をしたくはないけれど、間違いなくこの夜のなかで一番、美しい瞬間だった。
完璧なことなんてほとんどないけれど、そんな中でも時たまやってくる、'完璧な'時間を過ごせるなら、留保なく美しい瞬間を目の当たりにできるのなら、なかなかどうして日常も捨てたもんじゃない。これは感傷的にすぎるのかも知れないけれど、「良い夜」の記憶をたくさん持っておくことで踏み留まれる時もあるんじゃないか。別に夜でなくても良いけれど、そうしたモーメントの記憶こそ、日常の摩耗に対抗するよすがになり得るように思う。
今日も少しずつ風景が変わる夜のサイゴンを歩く。路地を抜け、いつも通りの喧騒と客引きの嬌声に包まれる。なぜかウサギを抱えた女の子とすれ違った。
フルーツビールにほろ酔いになりながら歩いたサイゴンは雨季の終わりかけで、街がいつもより少しだけ涼しかった。