S.T.コウルリッジ詩集
平野啓一郎の『本心』を読んだきっかけに、コウルリッジの詩集を手に取りました。
『本心』の作中、亡くなる前に読む詩は、コウルリッジの《小夜啼鳥》だと決めていた人物が出てきました。
その人は、本当に死ぬ前に、人生最後に恋をした女性(彼女はVF(ヴァーチャル・フィギア)でした)の前で《小夜啼鳥》を原文で諳んじました。
その場面が印象的でした。
自分が死ぬ前に読みたい「詩」というものを、まだ見つけられません。今後色々な詩、または本に出会って、そういう一文が見つけられればいいなと思いますが‥‥‥。
その前に死んでしまいそうです。
色々な本に接してきましたが、自分にとってのとっておきの一文はなかなか見つかりません。
だから、このように心に決めた「詩」がある人は羨ましいと思います。
実際に《小夜啼鳥》を読んでみたところ、詩にしては長いため、死の間際の人間がこの詩を全て暗唱するのは無理があると思いますし、どの部分を諳んじたのかは謎ですが、詩の最後はこのようになっていますので、もしかしたらここかもしれません。
岩波文庫の『コウルリッジ詩集』は、〈人生詩〉〈政治詩〉〈恋愛詩〉〈田園詩〉〈幻想詩〉とカテゴリー分けされています。
〈幻想詩〉に関しては、詩というよりは壮大な物語を読んでいるような感覚です。
ちなみに、村上春樹の最新作『街とその不確かな壁』のエピグラフでは、コウルリッジの《クーブラ・カーン》が引用されています。
《クーブラ・カーン》は、コウルリッジが体調不良の際に眠りについた時に夢で見た幻想を詩にしたそうです。
(クープラ・カーンは、モンゴルの皇帝、クビライ・カーン)
その夢は一旦は消え失せてしまったけれど、その断片がおぼろげに戻って再び結びついたようです。
幻想的な夢を見られるなんてちょっとうらやましいです。
私が見る夢は大抵、現実的でネガティブです。
過去の不安でしょうか。大学の試験直前なのに何も準備をしていないまま試験に挑むとか、会社や学校に遅刻するとか、電話が通じないとか。学生時代のこんなつまらない夢、永遠と見続けるのでしょうか‥‥‥。
最近は、仕事(授業)で、学生の名前が読めなくて、出席をとるだけで一コマ終わってしまうという夢を見ました。
さらには、私の授業を他の先生が見学しているにもかかわらず、まったく準備をしていない状態のため、ろくでもない授業になり、先生に失望の眼差しを向けられるなどです‥‥‥。
なんだか、寝るのもイヤになります。
同じく〈幻想詩〉から《古老の舟乗り》という作品がありますが、壮大な劇を見ているようでした。
ある舟乗りが一羽のアホウドリを大弓で射落としてしまいます。そこから呪いがはじまり、数々の幻想的で悲愴的な出来事を経て、どのようにして故郷にたどり着いたかの経緯が語られています。
しかし、その語りを聞かされているのは通りがかりの若者。この若者は婚礼に参加するつもりだったのに、古老の(元)舟乗りにつかまってしまい、延々と話を聞かされている状態で、ちょっと気の毒でした。
その若者は話を聞いたことによって人生の悲愴を知った賢い人間になったようですが。
最後に〈恋愛詩〉で印象に残っている《リューティ》を引用して終わります。私はこんなに情熱的になれないけれど、今は分かる気がするのです。