諸君、異論があるか。あればことごとく却下だ。
僕は太陽の搭が大好きである。
そもそも太陽の搭が好きになったのは、森見登美彦の小説「太陽の搭」を読んだのがキッカケである。
この小説を読んで、実際に太陽の搭を生で観てみたいと思い、実際に足を運んで観に行ってきました。
それぐらい森見登美彦の文章に感化されてしまったのです。
あくまでも僕個人の感想だが、この人の書く文章は、まわりくどかったり、堅苦しさがある。
簡単に完結できる文章を森見節で描かれ、その文才に僕は惚れてしまった所もある。
だから、彼が書く文章は名言っぽく聴こえてくる事もある。
彼は作中に数多くの名言を残しているので、作品毎に幾つか紹介したいと思う。
【太陽の塔】
私の大学生活には華がない。特に女性とは絶望的に縁がない。三回生の時、水尾さんという恋人ができた。毎日が愉快だった。しかし水尾さんはあろうことか、この私を振ったのであった! クリスマスの嵐が吹き荒れる京の都、巨大な妄想力の他に何も持たぬ男が無闇に疾走する。失恋を経験したすべての男たちとこれから失恋する予定の人に捧ぐ、日本ファンタジーノベル大賞受賞作。
何かしらの点で、彼らは根本的に間違っている。
なぜなら、私が間違っているはずがないからだ。
良薬とはつねに苦いものである。
ただし、苦いからと言って良薬である保証はどこにもない。
毒薬もまた苦いのだ。
誇りを持たずに行われる行為ほど愚劣なものはない。
ひるがえって言えば、誇りさえ確保することができればどんな無意味な行為も崇高なものとなりえる。
私はこだわりの男である。
こだわりすぎて前に進めないということが往々にしてある。
つまりは機転がきかない。
私は自信を持ってこれを美質と捉えているわけだが、これまた往々にして、個人が美質だと思っているものは世間から言わせると愚質となる。
坂本龍馬は立派かもしれないが、坂本龍馬を崇拝する人間が立派なわけではない。
そうして我々は「世の中腐ってる」と嘆くのだったが、正直なところ、時には、世の中が腐ってるのか我々が腐ってるのか分からなくなることもあった。
みんなが不幸になれば、僕は相対的に幸せになる。
天地人の間で、この才能を信じているものは唯一人我ばかりだ。
幸福が有限の資源だとすれば、君の不幸は余剰を一つ産みだした。その分は勿論、俺が頂く。
何かしらの点で、彼らは根本的に間違っている。
そして、まあ、おそらく私も間違っている。
我々の日常の九十パーセントは、頭の中で起こっている。
彼らに発作的殺人という罪を行わせないためにも、ここは逃げ切らねばばらん。億病ではない。慈愛である。
【夜は短し歩けよ乙女】
「黒髪の乙女」にひそかに想いを寄せる「先輩」は、夜の先斗町に、下鴨神社の古本市に、大学の学園祭に、彼女の姿を追い求めた。けれど先輩の想いに気づかない彼女は、頻発する“偶然の出逢い”にも「奇遇ですねえ!」と言うばかり。そんな2人を待ち受けるのは、個性溢れる曲者たちと珍事件の数々だった。
キュートでポップな恋愛ファンタジーの傑作。
この広い世の中、聖人君子などはほんの一握り、残るは腐れ外道かド阿呆か、そうでなければ腐れ外道でありかつド阿呆です。
若人よ、自分にとっての幸せとは何か、それを問うことこそが前向きな悩み方だ。
そしてそれをつねに問い続けるのさえ忘れなければ、人生は有意義なものになる。
夜の街で出逢った胡散臭い人間には、決して油断してはいけないよ。
言うまでもなく、我々のような人間にもスキを見せてはいけない。
人生論なんか、ちょっと年食ったオヤジなら誰だっていえるよねえ。
私は彼女の乳を揉んだ憎むべき男とえんを分つことになったのだが、もちろんその時はそうとは知らない。
本を読んでいる姿が魅力的なのは、その本に惚れ込んでいるからに違いない。恋する乙女は美しいという。
忙しいって言う人間ほど閑なものだ。
閑であることに罪悪感を抱くから、やたら忙しいと吹聴したがるんだね。
子どもは清らかであるという妄想と、美しい子どもはもっと清らかであるという妄想のゆえであろう。
薄汚い青春の最中に立ちすくむ大学生が、じつは世界で一番清らかであるという真実はつねに無視される。
学園祭とは青春の押し売り叩き売り、いわば青春闇市なり!
わけても男たちというのはどいつもこいつも阿呆であり、彼女の好奇心や優しさを己への好意と勘違いしているらしい短絡的思考の持ち主が多数あった。
志は素晴らしく美しいが、目的地から真逆の方向へ、全力で走ってる印象が濃い。
私は彼の力一杯の逆走ぶりを讃え、握手を求めた。
彼女の友は私の敵、彼女の敵は私の敵、昨日の友は今日の敵。
泣くものか。
眼から、いささか塩水が出た。
神様も我々も、どいつもこいつもご都合主義者だ。
私は布団を頭まで引き上げて丸くなり、自分で自分の身体を抱いた。
抱いてくれる者も、抱いてやる者のいないがゆえの、やむにやまれぬ自給自足である。
恋に恋する乙女は可愛いこともあろう。
だがしかし、恋に恋する男たちの、分けへだてない不気味さよ!
彼女は微笑み、声にならない声で「奇遇ですね」と言った。
私も声にならない声で「たまたま通りかかったものだから」と答えた。
私は性欲に流される、私は世の風潮に抗えない、私は一人の寂しさに耐えられない。
人事を尽くして、天命をまて。
かくして先輩のそばへ歩み寄りながら、私は小さく呟いたのです。
こうして出逢ったのも、何かの御縁。
あんた、一期一会という言葉を知っているか。それが偶然のすれ違いになるか、それとも運命の出逢いになるか、すべては己にかかっている。
【四畳半神話大系】
私は冴えない大学3回生。バラ色のキャンパスライフを想像していたのに、現実はほど遠い。悪友の小津には振り回され、謎の自由人・樋口師匠には無理な要求をされ、孤高の乙女・明石さんとは、なかなかお近づきになれない。いっそのこと、ぴかぴかの1回生に戻って大学生活をやり直したい!さ迷い込んだ4つの並行世界で繰り広げられる、滅法おかしくて、ちょっぴりほろ苦い青春ストーリー。
今ここにある己を引きずって、生涯をまっとうせねばならぬ。
その事実に目をつぶってはならぬ。
私は断固として目をつぶらぬ所存である。
でも、いささか、見るに耐えない。
このあまりのも説得力のない感じが、逆に説得力があるといっても、説得力に欠けるであろうか。
私は物事を分析して分析して分析し尽くした挙げ句、おもむろに万全の対策を取る。
むしろ万全の対策が手遅れになることも躊躇せずに分析する男である。
成熟した恋ほど語るに値しないものはない。
可能性という言葉を無限定に使ってはいけない。
我々という存在を規定するのは、我々がもつ可能性ではなく、我々がもつ不可能性である。
今ここにある君以外、ほかの何者にもなれない自分を認めなくてはいけない。
腰の据わっていない秀才よりも、腰の座っている阿呆のほうが、結局は人生を有意義に過ごすものだよ。
バラ色のキャンパスライフなど存在しないのだ。
なぜなら世の中はバラ色ではない。
実に雑多な色をしているからね。
【有頂天家族】
「面白きことは良きことなり!」が口癖の矢三郎は、狸の名門・下鴨家の三男。宿敵・夷川家が幅を利かせる京都の街を、一族の誇りをかけて、兄弟たちと駆け廻る。が、家族はみんなへなちょこで、ライバル狸は底意地悪く、矢三郎が慕う天狗は落ちぶれて人間の美女にうつつをぬかす。世紀の大騒動を、ふわふわの愛で包む、傑作・毛玉ファンタジー。
威張るから威厳があるのか、それとも威厳があるから威張るのか、そういう役にも立たない懐疑が湧き出してくるのを問答無用で抑えつけてしまうものこそ、本物の威厳というものだ。
相手が自分の思い通りに動くことと動かないことの間隙にこそ、惚れるということの味がある。
どうするべきか分からないときには、何もしない方が得策だ。
世に蔓延する「悩みごと」は、大きく二つに分けることができる。
一つはどうでもよいこと、もう一つはどうにもならぬことである。
両者は苦しむだけ損であるという点で変わりはない。
努力すれば解決することであれば悩むより努力する方が得策であり、努力しても解決しないことであれば努力するだけ無駄なのだ。
牛丼を旨いと思う純粋な心だけはずっと失わずにいたい。
知らない方が良いこともある。
知らなければならないことはいずれ知ることになるし、知らないですむのならばそれに越したことはないのさ。
面白きことは良きことなり!
狸は如何に生くべきか、と問われれば、つねに私は答える__面白く生きるほかに、何もすべきことはない。
我ら一族とその仲間たちに、ほどほどの栄光あれ。
【恋文の技術】
京都の大学院から、遠く離れた実験所に飛ばされた男が一人。無聊を慰めるべく、文通修業と称して京都に住むかつての仲間たちに手紙を書きまくる。文中で友人の恋の相談に乗り、妹に説教を垂れるが、本当に想いを届けたい相手への手紙は、いつまでも書けずにいるのだった。
青春の可笑しくてほろ苦い屈託満載の、新・書簡体小説。
大学という不毛の大地を開墾して収穫を得るには、命を懸けた覚悟が必要だ。悪いことは言わんから、寝ておけ寝ておけ。
流れ星を見たので、「人恋しい」と三回祈ろうとしたら、「ひとこい」と言ったところで消えてしまった。
どうやら夢も希望もないらしい。
なぜ俺がこんな話を書くか分かるか?
べつに意味はないのだ。教訓を求めるな。
恋をするにもルールがある。
ルール無用の戦いをした人間は、必ず世間を敵に回すのであり、買っても負けても不利になる。
彼女を失うだけならばまだ良いが、人生を棒に振る。
失った人生はpricelessだ。
世の中にはいい大人もいれば、悪い大人もいます。
いい大人だけどヘンタイの人もいれば、悪い人でヘンタイの人もいます。
用心してください。
無駄になったラブレターの数だけ人は成長する。
詩人か、高等遊民か、でなければ何にもなりたくない。
室町通の美味しいイタリア料理店にて、緑なす黒髪の美女と差し向かいとは、まさに夢のようですね。俺が思うに、それはきっと夢ですよ。
最初に太陽の搭の話から始めてしまったので、事のついてなので、芸術作品「太陽の塔」を作った岡本太郎の名言も紹介しておきます。
「ズバリ答えよう。金と名誉を捨てたら人間の「生命」が残るんだ」
「精神の自由さから来るデタラメこそが真の芸術である。」
「友達に好かれようなどと思わず、友達から孤立してもいいと腹を決めて、自分を貫いていけば、本当の意味でみんなに喜ばれる人間になれる。」
「人生に命を賭けていないんだ。だから、とかくただの傍観者になってしまう。」
「自分という人間をその瞬間瞬間にぶつけていく。そしてしょっちゅう新しく生まれ変わっていく、エネルギーを燃やせば燃やすほど、ぜんぜん別な世界観が出来てくる。」
「僕は流れるって感じが好きなんだ。固定したものは全然つまらない。人生だってそうだろう?いつも流動的で、何が起こるかわからない。だから面白いんだ。」
「挑戦した不成功者には、再挑戦者としての新しい輝きが約束されるだろうが、挑戦を避けたまま降りてしまった奴には新しい人生などはない。」
「自分に能力がないなんて決めて、引っ込んでしまっては駄目だ。なければ尚いい。決意の凄みを見せてやるというつもりで、やればいいんだよ。」
「人間にとって成功とはいったいなんだろう。 結局のところ、自分の夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、努力したかどうか、ではないだろうか。」
岡本太郎の人生観と言うか、芸術観と言うか彼の人間性がはっきり伝わってくる言葉ばかり。
「朱に交われば赤くなる」ということわざがあるように、色々な人から感化されて様々な事を吸収して成長していきたいものです。
ま、このことわざは良くも悪くもなるということわざですがw
小説はハードルが高過ぎると思っている人のために。
森見登美彦の作品の中でも特に人気の高い「夜は短し歩けよ乙女」がアニメ映画となって4月7日(金)から全国ロードショーされます。
そして、有頂天家族2も4月からアニメ放送が決定しています。
過去には、四畳半神話大系と有頂天家族もアニメ化されDVDとかも出ていますので、まずはアニメから入るのもありです。
一人でも多くの人に森見登美彦の作品に触れていただきたいものです。
是非この機会にいかがでしょうか。
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