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枝豆を食べに行く。その3

 
 ここのところの毎日の曇天には辟易している。もともとないやる気がもっとなくなった。とはいえここ数年、一度だって心の中が晴れたことなどない。それなら天気が晴れようが曇ろうが関係はない。でも辟易する。
 ふと、スーパーにひとり出かけてみようと思った。いつもは週末に夫と一週間分を買い物するのだが。仕事を辞めて少しだけ鬱が楽になると、時々どうにもひとりで居る平日の日中の家が息苦しかった。冷蔵庫以外の音が聞きたい。そもそも、テレビやオーディオの”積極的な音”は今でも受け付けない。情報を薄く伸ばして長々と伝える結論も出さない主婦向けの情報番組。大きな音も色も、がちゃがちゃと目に入るテロップも煩わしい。トイレから帰ってきても、まだその話題をやっている。

 専業主婦になったのだからひとりで毎日買い物に出ればいいのだが、共働きの頃の習慣は生活のあちこちに残ったままだった。夫はいずれまた私が働きに出る事を望んでいると思う。収入がどうとかよりも、弱気で判断力がなく、やる気も勢いもなく不安と自信のなさで卑屈で何年経っても“養われる”事に対して抵抗感を持っている今の私ではなく、その全てに真逆だった頃の私を見染めて結婚したのだ、当然だろう。まさか、こんな人格になるなんて、こんな人生になるなんて私本人ですら考えてもみなかった。会社を辞めてから何度かケンカになった。別人になってしまった私のことで。社会と繋がっている事は大事だと夫は言った。私は会社をやめると同時に稽古事も全てやめていた。着つけに陶芸、茶道に華道。スポーツジムにも行っていた。鬱が少しづつ良くなっても何週間も夫以外の人と話もせず、そもそも家から出ない。その頃の夫の困惑はいかほどのものだっただろう。「前みたいに綾子に輝いていて欲しいんだよ。」そう言った夫は泣いているように見えた。

 そんな夫も今はもう何も言わない。私だって毎日毎晩、心の中の自虐は止まらない。今の私はペットだろうか。そんな可愛いものではない。退職後10キロも太った。たるんで衰えて歳を取って。元気も愛想もふるえない。しかも稼がない。家事も最低限しか出来ない。自分の身繕いもろくに出来ない。勝手に乳を出さなくなった牛、卵を産まなくなった鶏を憂う。自分を重ねる。何も生み出さないのに消費する、愛玩ですらない。せめて、賭殺して喰えればよかったのに。美味しくないだろうけど。
 
 大して買うものもないのだから、財布だけ持って歩いて出かけた。買い物が多ければ車だし、クロスバイクで行くのもいいのだが、珍しく歩きたい気分だった。平日の曇った昼間、田舎のこの街では歩いている人など私だけだ。時折急いでいないスピードの高齢者マークの車が追い越して行く。客が来ている気配がないのに潰れない何軒もの小さなスナックがある通りを過ぎる。昼間なのでひっそりとしている。実は夜もひっそりしている。客が来ている気配がないのに潰れない洋品店の前も過ぎる。ゴールデンリトリバーが店番をしているたばこ屋の角を曲がってもうすぐスーパーというところで「しまった!」と思った。駅南のスーパーは閉店して駅北に移転したのだった。年々住宅が増え、活気がある駅北に比べて駅南の地域の高齢化、過疎化は肌で感じる。5、6軒あったスーパーやドラッグストアがひとつ、またひとつと閉店していっている。個人店も潰れては更地になった。それらの跡地には高齢者施設が建った。空き家が多くなり、窓からはゴミ屋敷のように物うず高く積み重なっているのが見える。庭は草がぼうぼうだ。
 15分も歩けば着くと思って出かけて来たが、更にもう15分歩かないといけない。どうしよう、家に戻るか。でも家に帰ってもやる事はあっても、どれもやりたくなく、ただ無感情に繰り返し繰り音声を消したパソコンゲームをするだけだ。帰ったってしょうがない。仕方ない、行こう。
 
 平日の午前中。スーパーは人が少なく、8レーンあるレジカウンターはひとつしか開けていなかった。それでも、ちらほらといる客は、お年寄りで男性の一人客が多いように思えた。だからだろうか、お酒のコーナーと総菜のコーナーに人数が片寄っているように見えた。この年代の男性は男がスーパーでひとり買い物をすることなど、恥と思っているのかもしれない。人の少ない今の時間帯を狙って来ているのかもしれない。どの背中も小さく、丸まっていて心もとなくみえるのは、父が独り暮らしをしていた姿が重なって私の罪悪感を刺激するからかもしれない。父は母が病気をするまで、独りでスーパーなど絶対に行く人ではなかった。母が亡くなり独りになると必要に迫られ行くようになり、その様子を被害者然とした視点で長々とメールして来た。慣れてくれるのを黙って辛抱強く待つしかなかった。

 缶詰のコーナーを過ぎて、隣の合わせ調味料の棚を見て今夜の夕飯の献立を考えた。味の素の「Cock Do」シリーズやキッコーマンの「うちのごはん」を買ったりはしない。さすがに子供のいない専業主婦がそこまで楽していいと思っていない。ただ、メニューの参考にするのだ。冷蔵庫に残っている野菜と冷凍庫のひき肉でなんとなくキャベツの肉みそ炒めもどきを作ると決め、シチューやカレーのルーの棚に差しかかった。
 母が元気な頃、私は茶道の稽古の日には仕事帰りに実家に寄って両親と夕食を共にした。食事を済ますと、祖母や母の着物に着替えて稽古に向かった。母が亡くなってしばらくして稽古通いを再開した。実家に寄ると、父が慣れない台所で私に夕食を作ってくれていた。二人で囲んだカレーライスはもちろんレトルトなのだが、何故か生のサツマイモが入っていてカレーはかなり焦げが混ざっていた。察するにレトルトカレーを鍋に入れ、生芋を煮ようとしたが芋に火は通らないしカレーは焦げるしで仕上がった代物なのだろう。父は憮然としてもくもくと食べている。私も黙って食べる。二人共、この事態を笑い合える程、母の死の悲しみは癒えてはいなかった。ただゴリゴリと生芋を食む音が響いた。

 懐かしい匂いがした。よく知っている、近くでかぐ事の多かった匂い。もう二度とかぐ事はないと思っていた匂い・・・・。そこには小さな背中のおじいさんが居た。毛玉だらけのねずみ色のスウェットの上下にサンダルばき。かかとがガサガサにひび割れている。空っ風でひどく乾燥するこの地域の高齢男性の特徴だ。よく見慣れた装いだった。おじいさんはシチューのルーをスーパーのカゴにひとつ入れているところだった。振り向いて私の顔を見るなりぎょっとして慌てふためいている。何か言いたそうで口をパクパクさせてはいるがいっこうに言葉にならない。そうこうしている内に今度は両手をバタバタさせて、あらゆるポケットを探っている。目当てのものは結局、尻のポケットに入っていたようだ。それを私に差し出して怒ったような困ったような顔をしていた。可愛いお猿さんのアップリケのあるブルーのタオル地のハンカチ。私がそれを受け取って思わず噴き出すと、おじいさんは真っ赤になり猛然とした速足でサンダルをバタバタ鳴らして立ち去ってしまった。今度はこちらが茫然とした後、ようやくハンカチを手渡された理由に気が付きびっくりした。私は泣いていた。諾々と泣いていた。おじいさんが立ち去った後、ひとり。ハンカチはありがたく使わせて頂くことにした。懐かしかったのだ。あれはヘアトニックの匂い。おじいさんのヘアトニックの匂い。亡くなった父の匂いだった。

 よくよく見ればその可愛らしい猿のアップリケはボロボロで、丁寧に補綴してあるもののそろそろ再び繕った方がよさそうだった。いつかまたスーパーで会った際に返せるように補綴と洗濯をしておこうかとも考えたが、なんというか事情を考えさせられる程にボロボロだった。これはどちらもやらずにそっとしておいた方が良さそうだ。そして、たぶんあのおじいさんはこれを私に渡してしまって戻らない事を今頃もの凄く参っているはずだ。


                    ~つづく~





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