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お父さんの背中

 お父さんという男は瞬間湯沸かし器で武闘派で、カッコつけでプライドが高く、照れ屋で独自のルールに対しての正義感が強く、でも気さくな男で明るい。なかなかクセの強いお父さんで、というか、母もかなりクセが強いので昔から家庭はなかなか大変だった。二人共、プライドが高く見栄っ張りなので、両親と三姉妹の家族は外からは仲が良く幸せに見えただろうが、(むしろそれに命をかける両親だった)内情は度々険悪だ。ただ、お父さんは単純で人間味があって人情派。時々、背中で語ってはグッと来させられてしまう。ズルい。

 お返しを一切くれないのに、誕生日やバレンタインにプレゼントを欲しがり無視するとずっと拗ねる。嫁ぐ前の最後のホワイトデーに見かねた母がお父さんを連行して買い物に行き、髪飾りとセーターを買ってくれたが、クリーニングに出そうと袋に入れて玄関に置いておいたのを、お父さんが間違えてゴミに出してしまった。唯一のプレゼントを自ら葬ってしまった。

 娘達が綺麗でいることを好み、長くしていた髪を切ろうとすると非常に嫌がる。ある時などは1000円を渡され「これでパーマネントでもあてて来い。」とはにかむ。”パーマネント”って、”あてて”って・・・。私の出勤時には度々「ハイヒールを履いて行け」という。そうは言っても工場勤務の私の出勤スタイルは作業着だ。ミスマッチなんですよ、到底。

 そんな私も時には恋をして、破れたりもして。その時も、出勤のため玄関で靴を履くお父さんは私を呼びつけ、こちらも見ずに「これが終わりじゃないんだ。これからなんだ。始まりなんだ」とぼそりと言った。私が失恋したことをちゃっかり知っているのである。

 色気のない作業着通勤の私も工場の同期と縁が出来た。友達カップルと示し合わせて、お互い親に対してアリバイ工作し、それぞれ内緒の旅行をしたが、簡単にバレてしまった。お父さんは怒り狂って、「出ていけ!!」と私の部屋のクローゼットの服を全部投げ出し、勢い余ってクローゼットを倒し、それはもう大変なことになった。肩で大きく息をした背中はとても猛々しかったのに、なぜか弱々しく悲しそうでもあった。とにかくそれでも気が治まらなかったお父さんは、彼の住む会社の寮に反社だと名乗って電話の取り次ぎを要求し、喫茶店に彼を呼び出して骨の一本も折ってやると脅して「二度と娘さんに会いません」と念書を書くことを強要した。恐ろしいことに彼は念書を頑として書かなかった。今にして思えば、そのガッツこそお父さんが求めていたものだったのかもしれない。寮の電話を取り次いだ先輩から「え?反社の娘に手を出した?」と心配され噂になっているようだったが、本人は「自分さえ、反社を装ったのは娘が可愛いからだと分かっていればいい。お父さんは悪くないんだよ。」と一緒に両親に謝って交際の許しが下った。
 因みに、お父さんはしがない団体職員で反社の要素は微塵もない。会社人生を通じてサボりがちな男だった。

 そんな彼と数年後、結婚することになり、毎週末準備に追われた。子供の初めての結婚を前に、何をするでもないのに不安と苛立ちを勝手に募らせていたお父さんは「結婚前の娘は家で静かに過ごし両親に感謝するべきだ!」と一見正論のひどい理不尽なことを主張して、やる事いっぱいでイライラした私と武力衝突に発展した。その時も「殴るなら僕を殴ってください!」と眼鏡を外してお父さんに顔を差し出した彼に嫁いで、本当によかったと思っている。

 そんな私達の結婚式で、支度のため早朝式場に出かけた私と彼に代わり、婚姻届を役所に持って行く任務を担ったのは、なんとお父さんだった。正直、数年の間は本当に自分達は結婚出来ているのだろうかと若干訝しかったりもした。
 披露宴ではお父さんは会場で友人達にお酌をしてまわり「アイツはクセの強いヤツだが根は悪くないので、どうかこれからも仲良くしてやって欲しい。」と頭を下げてくれたらしい。両親への手紙なんて「けっ!」と思っていた私は、エルビスプレスリーの好きなお父さんに最後、サプライズで歌ってもらうという演出をした。途中からは一緒に歌った。会場の友人達は「ハイヒール出勤命令事件」、「1000円でパーマネント事件」、「内緒のお泊りバレ事件」、「殴るなら僕を殴ってください事件」等々、全てを知っている上に、先程の「アイツはクセの強いヤツだが・・・」が相まってあちらのテーブルでも、こちらのテーブルでも号泣だった。

 嫁いで家を出たことで、両親との関係は格段に良くなって楽になった。それは両親の側にも言えることだったようで、私に対して両親はだいぶ優しく、丸くなった。実家を訪ねて「ただいま~」と言うと、「お嫁に行ったのだから“ただいま”じゃなくて“こんにちは”だぞ。」とたしなめ、それでも嬉しそうにお父さんは笑っていた。それを分かっていて、いつでもわざと「ただいま~」と帰った。

 しかし、私が嫁いだからと言って、クセの強いお父さんが急に性格丸ごと変わるわけではなかった。私が嫁いで程なくして定年退職を迎えたお父さんはヒマになった。丁度その頃、芸能人の経歴詐称が取りざたされて世間が大騒ぎになっていた。そのタイミングでお父さんが持ってもいない犬の訓練士との資格を記した、自作の名刺を知り合いに配って回っていた。定年退職後の男性が、肩書がないことを憂いてなかなか大変だということは、今の歳になってみれば女性の私にも分かる。ただ、当時は件の芸能人への苛烈な報道とバッシングを見るにつけ母と私達姉妹はものすごく憂いて、怒りもしていた。そして、家族が咎めたくらいで撤回や反省をするような男ではない。お父さんはクセが強いのだ。もちろん逆切れも辞さないだろう。ところが、そんなお父さんを評して夫が「お父さんは吟遊詩人だからしょうがないよ。」と飄々と言った。その場の私達は“吟遊詩人”の何たるかを全員よく分かっていなかったにもかかわらず、何だかとっても腑に落ちて、全員で「そうだ、お父さんは吟遊詩人だから仕方ないんだ。」と心から救われた。夫が私達家族に加わってくれたことで、私の実家はずいぶんと生きやすくなった。因みに、もちろんお父さんは吟遊詩人ではない。でも、その場は「森の妖精」でも「スナフキン」でもなんでもよかったのだと思う。

 私達の結婚から11年後、お父さんが死んだ。癌だった。前の年に母が癌で死んだ。1年半の闘病生活だった。家族の誰もがバカみたいに健康で、初めての大病が母の癌だった。闘病をどう支えていいか全員が分からなかった。高熱の下げ方すら全然分かってなくて、見かねた入院先の同室の患者さんが手を貸してくれる程だった。そして、癌の闘病の全てを経験したお父さんの闘病は困ることが多かった。初めての闘病で母には隠せた状況も、お父さんには通用しない。薬の袋に刻印された「麻」の意味も、それを渡されるのがどういう段階かも、遠く都内まで通う1回数十万円もする保険外治療が母には効果がなかったことも、大学病院での高度な医療をもってしても助からなかったことも全部経験したばかりだからだ。

 初めてお父さんの背中に不安を感じたのはその頃だった。お父さんは毎週抗がん剤の通院治療をしていた。事前の血液検査で、その週の抗がん剤が可能かどうかが決まる。毎週有休を取って付き添った。ある時、白血球の数値に問題があり、その週の抗がん剤治療は無理だった。落ち込んだお父さんが気を取り直して映画でも行こうと言い出した。観たい映画があったようだ。よく行くというショッピングモールの中の映画館へ先導してくれた。意気揚々と色んな店のこと説明してくれて得意げだった。映画館では体に障るからと止めても、大きい箱のポップコーンを買いたがり嬉しそうだった。「娘と映画なんて久しぶりだな。」と、はにかんでいた。でも、楽しみにしていた映画は思っていた感じと違ったようだ。昭和初期の家族を描いた作品だったが、お父さんは「ALWAYS 三丁目の夕日」のようなハートフルでコミカルなものを想像していたようだ。でも作品の内容はけっこう悲しく重たいものだった。映画が終わった後、「ちょっと思っていたのと違ったな・・・」と弱々しく笑ったお父さんは車に戻ろうと再び私を先導したが、たくさんあるショッピングモールの出口も駐車場所も分からずにパニックになっていた。真冬なのに汗をかき、キョロキョロと目を泳がせて右往左往していた。お父さんの背中はこんなに小さかったか?“頼れるお父さん”だなんて昔から全然思っていなかった。クセが強くて付き合いづらいお父さんだった。でも、心のどこかでは頼りにしていたことを、急に今知った。なぜなら私は今こんなにも狼狽している。
 お父さんの誇りを傷つけないように、さりげなく車に誘導して「たまにはいいじゃない。」と運転を代わって帰路についた。私がしっかりしなくてはいけない。

 その後、程なくしてお父さんの容体は悪くなる一方で、私は仕事が終わると度々実家にいってはモルヒネのパッチを張り替えるのに明け暮れた。お父さん本人に任せるのは不安でしかなかった。そんな時、いつものように実家に寄るため会社を出ようとすると、上司からCDを数枚手渡された。「闘病の励みになると思って。お父さん、エルビスプレスリー好きだったでしょ?」と結婚式でお父さんが歌ったのを覚えていてくれていたのだ。上司もエルビスプレスリーが好きなのだと言う。オリジナルのセットリストを手書きしてくれ、曲の説明なども書いてあった。

 なんとか私とお父さんの生活の両方を回すために、地域のケアマネ―ジャーに相談して、配食サービスや通院ヘルパー、家事のヘルパー、訪問看護をフル活用した。私も自宅で総菜を作っては実家の冷蔵庫にたくさん入れたが、冷蔵庫を確認する度に全く手を付けておらず、どれも七色のカビが生えていた。そのくせ、食器棚にはシチューの素やホットケーキミックスが買ってあり、自分では作れなくて放置してあった。お父さんは配食サービスの食事が気に入らないのでも、家事ヘルパーの食事が気に入らないのでも、私が作ったものが気に入らないのでもなく、ただ誰かと、家族みんなと温かい食事を取りたかったのだ。シチューやホットケーキをかつてみんなでワイワイ食べたように。当時の私にはそんなことも分からなかった。

 その後、お父さんはせん妄を発症し、通院ヘルパーの車を強奪して消えたことがあった。連絡を受けて急遽会社を早退し探し回った。お父さんに何かあったらどうしよう、どっかの何かを壊したらどうしよう、どこかの誰かを傷つけたらどうしよう、どこかの誰かを殺しちゃったらどうしよう。じりじりと時間だけが進む中、車の中で泣きながら、「誰か助けて!!」と叫んだ。母の癌が発覚してからこっち、何度こんな精神状態に陥っただろう。
 結果的に、いつもの病院の前でボコボコに傷ついたヘルパーステーション車を発見した。その病院の精神科にお父さんは保護されていた。様子のおかしいお父さんを、警備のおじさんが精神科に誘導してくれたのだ。後でお礼を言うと、おじさんの母親は認知症だと言う。「同病相憐れむ。お互い頑張ろう。」と言った。せん妄と判断してくれたのはその病院の担当医でも、その病院の精神科医でもなく、私のメンタルを支えてくれていた会社の産業医だった。「それはせん妄だ。すぐに専門治療が必要だ!」とその場で意見書を書いてくれた。車を強奪された通院ヘルパーステーションは最初怒り心頭だったが、私が「お父さんに何かあったらどうしよう!」と狼狽したことで、介護のプロスイッチを思い出し一瞬で切り替えて一緒にお父さんを探してくれたが以後、契約は反故となった。当たり前である。ケアマネージャーは連絡を受けて家の前で待機してくれていた。付近を探してくれていたらしい。全てを知った上で、介護の方のヘルパーさん達は当然のようにその後も最後まで仕事を続けてくれた。それどころか、「大変だったね。」と両手を広げて抱き留めてくれた。

 お父さんの病院選びはつまり間違ってしまった。地域で一番の大学病院で母の癌は治らなかったので、お父さんはその大学病院はイヤだと言ったのだ。ある時、有休を取ってお父さんをいつもの病院に連れて行ったら、たまたま馴染みのヘルパーさんに会った。すごい形相だった。どうしたのか聞いたら、数日前の担当医の一件がどうしても許せない。ひと言ってやらなければ気が済まないと、病院に乗り込んで来たのだという。その一件とは、自宅でお父さんの高熱を心配したヘルパーさんが病院に連絡すると、せん妄による車の強奪事件や徘徊が「高熱のお陰で治まるじゃないですが、よかったじゃないですか。」と担当医が言った件だ。私は色んな感情を飲み込むしかない。でもヘルパーさんは怒り心頭だった。それでも担当医を頼るしかない私の代わりにヘルパーさんは怒ってくれたのだった。

 4月はお父さんの誕生日だった。最後の誕生日になると分かっていた。お父さんには伝えてなかったが、家族には余命が3か月から6か月だと最初から知らされていた。仲の良い親戚や友達を招待して、実家でお父さんの誕生日会をした。最後の誕生日と気負った私は大きなケーキを発注し、高価な寿司を用意した。でも、高価なおまかせのお寿司に、お父さんの好物のイカとタコの寿司はなかった。みんなの前でお父さんにそれを指摘された。私はそれが恥ずかしかったが、そんなことより、お父さんの最後の誕生日にお父さんの好物がなかったのだ。私は今でもそのことを、15年経った今もその時の自分を許してはいない。

 お父さんは自宅で亡くなった。その日はみんなでお父さんお薦めの温泉宿に行く日だった。その為、数日前に入院先から一時帰宅の許可をもらっていた。妹達が朝9時頃、そろそろ起こすかと声をかけに行ったら亡くなっていた。
 一時帰宅後すぐにお父さんは高熱が出て皆で明日の温泉は無理だと判断していた。正直、皆を労いたいから温泉に行こうとお父さんは言ったものの病院との調整や宿の予約、移動の車をどうするか、お父さんのための旅館の食事の細かい変更、緊急時の対応について等。仕事に家庭に実家の世話とお父さんの世話と、疲弊しきっていた私は本当にもう何なんだと思ってしまった。悪いのはお父さんじゃないのに。あまりにもがっかりしてお父さんからの「ごめんな、ごめんな。」と何度も謝る電話を邪険にしてしまった。そして次の朝、お父さんは亡くなった。生涯で初めて子供達を労おうとしたお父さんは、結局目的を果たせずそのまま逝ってしまった。それでもいいのだ。子供になんか、何があっても謝らないという方針の両親が、お父さんが何度も謝ってくれたのだ。それだけで充分だった。

 亡骸は一度病院に戻され、エンジェルケアや書類手続きを済ませて霊安室に移される。亡骸を乗せたストレッチャーを移動させながら、看護師さん達が廊下の両側のドア次々に閉めながら進んで行った。他の患者さんに見られてはいけない。なんていうか、モーゼの十戒と表現される、海が割れるシーンがなぜか思い浮かんだ。私は病室のベッドの私物を片付けた。マグカップや歯ブラシ、ティッシュペーパーや老眼鏡。小さな個別キャビネットの扉を開けると、ひと口かじった歯形のついた饅頭があった。数日前に私が差し入れしたお父さんの好物だ。お父さんの饅頭はこんなにも生々しく残っているのに、またちょっと後で食べてくれるはずのお父さんはもうこの世のどこにも居ないのだ。
 
 やたらに入院をしたがったくせに、お父さんは毎週のように一時帰宅をしたがった。亡くなる2週間前の週末だっただろうか、お父さんが風呂に入るのを介助して髪を洗ってあげた。しきりに「あ~気持ちいい!気持ちいいな~。」と言っていた。痩せて小さくてカサカサで皮のたるんだ背中を流した。それがお父さんの最後の背中だ。もうお父さんの背中が頼りないとか、不安とかではなく、もうすぐこの背中がどこにも存在しなくなる。それは私の実家もなくなるということでもあった。後日、妹から「お姉ちゃんに髪洗ってもらいてぇなぁってお父さん、何回も何回も言ってたよ」と聞いた。

 お父さんのお葬式の家族席は、全員40歳以下の若造のみで、とても心もとなかった。8か月前に母のお葬式で、お父さんが喪主挨拶でしきりに「みよの国」と言っていて、コソコソと夫と「黄泉の国じゃんね。」と小ばかにしていたら、喪主挨拶の冒頭から私はお父さんの享年を「96歳」と間違えた。69歳なのに。バチが当たった。

 お父さんが亡くなってしばらくして思ったのは、呼びかける相手が居なくなった“お父さん”という単語の違和感だった。もうこの先、呼びかけることのなくなった“お父さん”という言葉。あんなに喜怒哀楽の全てで何万回、何億回と呼びかけた“お父さん”をしばらく使わなかったことで、しっくり来なくなったことにものすごいショックを受けた。なので、ここでは“父”と書かずにあえて“お父さん”と書いた。時々、感情を込めて口に出しながら書いた。そして、”お父さん”という単語の愛着と共に段々と忘れていってしまいそうなお父さんとのエピソードを書いた。ずっと書きたいと思っていた。もう実は来年17回忌だ。

 私の一番古いお父さんの記憶はたぶん、お父さんの背中だ。夕暮れ、お父さんに背負われていた。キンキラの長い帽子を被ったおじいさんの家からの帰り道だった。この頃の私はお父さんに背負われて、色んな不思議な恰好の人達のところに通っていた。幼い頃の記憶で曖昧なのだが、大きなろうそくが立っていたとか、今思えば七福神の像とか、キンキラの長い帽子とかを薄っすらと覚えている。その頃私は、今でも消えない胸に跡のある火傷をした頃で、当時は顔にも赤く跡が残っていた。火傷の跡に関してはもう医療の限界で、残るはもはや神頼みという段階。お父さんは色んなツテを頼りに見つかる限りのあらゆる神様のところに私を連れて行っては祈祷してもらったらしい。その火傷の事は、痛みや辛さや衝撃の瞬間は全く覚えておらず、その祈祷の数々とお父さんの背中で歌った「トンボのめがね」の事と、当時高嶺の花だった「ママレンジ」を始めとする大物おもちゃをいくつも買ってもらえるというフィーバーしか覚えていない。
 夕暮れ、お父さんに背負われ「トンボのめがね」を一緒に歌った。幼い私は“めがね”と言えずに“めなげ”と高らかに歌った。お父さんは可笑しさで声を歪ませながら訂正する事なく一緒に“めなげ”と歌ってくれた。色んな神様に祈祷に行ったけれども、どんな神様よりも、温かく広いお父さんの背中が一番頼もしく一番安心だった。そこに居さえすれば私は大丈夫だったのだ。



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