小説:アスカは明日も誰かのために 4-2
4章-1
奈良県南東部に位置する東吉野村。そこは清流高見川のほとりに広がる静かな村だ。川沿いには鮎釣りの看板が立ち並び、初秋の風物詩として村人や訪れる人々に親しまれている。周囲は豊かな自然に囲まれ、四季折々の風景が訪れる者の心を癒やしている。最近では国内のデザイナーたちが東吉野村に集まり、新しい産業とワークスペースも生まれつつある。そこでは創造的なエネルギーが満ち溢れ、村全体に新たな風を吹き込んでいる。
そんな東吉野村の中心部からさらに車で15分ほど移動した場所に、染織工房 HANAORI<花織>はあった。渓流から酸素をたっぷり含んだ水を引き込める立地は、染織に欠かせない精錬工程にも最適だった。綾乃がこの場所を選んだ理由の一つでもある。
7月中旬、水曜日の朝。約2時間のドライブを経て工房に到着した明日香は、車から降りると古民家を改装した工房を見上げた。階段の上に建つ工房は、周囲の山々を背景に趣深い佇まいを見せている。スマホを取り出し、綾乃に到着を知らせる。
「明日香さん、遠いところよく来てくれたね」
「綾乃さん、お久しぶりです」
50歳を過ぎた綾乃は明日香よりも二回りほど年上だが、その行動力と創造的な感性からは年齢差を感じさせない。綾乃は今日も週末のワークショップに向けた打ち合わせのために、早朝から準備を進めていた。
「わぁ、素敵な場所ですね」
「ありがとう。どうぞ、中に入って」
通用口から小さな中庭に入ると、そこには明るい空間が広がっている。向かって右手の小部屋に目を向けると、床には3つほどのかめが埋め込まれていた。
「明日香さん、これが日曜日に使う子たちです。よく泡が立っているでしょう?これは藍の華って言って、発酵がよく進んでいる証拠なの。実は月曜日まではうんともすんともだったから、やっと発酵が始まってくれてホッとしてたところ」
「染料って生き物なんですね・・・」
「そうだよ。うちは天然でやってるからねぇ」
一つのかめの液面に浮かぶ繊細な泡を、綾乃は静かな眼差しで見つめる。その表情や仕草からは、長年染織に向き合ってきた職人の確かな目が感じられた。
「さっそくだけど、試しに何か染めてみる?」
「いいんですか?」
綾乃のアドバイスに従いながら、明日香は白地の絹のストールを水で濡らした。
「染色はゴム手袋使う?」
「いえ、素手でやってみます」
「いいね。手も染まっちゃうけど、それも趣があるよ」
明日香はストールをゆっくりと藍かめに沈める。30秒ほど時間をおいてから引き上げ、たっぷりの流水で洗い上げる。そして、中庭に干した。この作業を何度か繰り返すうちに、時間があっという間に過ぎていった。
「藍は酸素で色が定着するの。これから少しずつ、色が変化していくよ」
「へぇ、素敵ですね」
日の光に照らされ、風に揺れる青いストールを見つめる明日香の顔に、自然と笑みが浮かぶ。そこには染色という伝統技法への感動と、その専門家である綾乃への敬意が込められていた。
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