小説:アスカは明日も誰かのために 4-1
4章 青色の待ち時間
山あいに佇む古い民家で、染織家の神田綾乃(かんだあやの)は今朝も藍がめと向き合っていた。渓流のせせらぎと鳥のさえずりが清々しい朝の空気に溶け込む中、工房の入り口から差し込む柔らかな陽光が、藍がめの表面に浮かぶ泡を青く輝かせている。初秋の涼やかな風が、縁側に置かれた風鈴を揺らした。
「また目が・・・」
綾乃は疲れた目をそっと押さえた。最近、急に増えてきた目の疲れは、長年染織一筋に生きてきた自分の人生に、初めて訪れた不安の兆しのように感じられた。昨日も染め上がりの色合いになんだか納得できず、何度か作業をやり直すはめになった。
藍がめの表面に浮かぶ美しい泡<藍の華>を見つめながら、綾乃は今朝作業をはじめてから三度目のため息をつく。発酵の具合は申し分ない。しかし、これまで誇りにしてきた自分の感覚が、少しずつ鈍っていくような不安を感じずにはいられなかった。
作家気質で完璧主義の綾乃は、自分にも他人にも厳しい性格だった。特に一人息子の悠真には、彼が成人になった今でも必要以上に厳しくあたってしまう。今朝も些細な朝食のことで言い争ってしまい、後悔が残った。来週末に開催予定の藍染めワークショップでは悠真の手を借りるつもりだったが、この調子では心配だ。
工房の外では、ミンミンゼミが朝の合唱を奏でている。その声に混じって聞こえる渓流の音は、十年以上もの間、綾乃の創作の伴奏を務めてきた。その変わらない音色が、今日も綾乃の不安な心を少しだけ和ませていた。
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