この世はcacophony

cacophony=不協和音 ずっと気になっているこの言葉について
2012年から毎年参加していたBurning Man という催しがある。アメリカネバダ州北端のBlack Rock砂漠で毎年8月最終週から8月第1週の7日間に渡って開かれる大集会。何もない砂漠を州政府から借り受けて巨大キャンプが張られる。アメリカ人のやることはスケールがでかい。規模としては、神戸で例えるとポートアイランドから神戸港にかけての面積、主催者は基礎的な設備、例えば本部、医療設備、警備隊、消防、などなどの最低限の準備をする。参加者は”他人に迷惑をかけることなく自立せよ”というのが基本なので、住居となるテントはもちろん食料、水など自らが一週間を生きるために必要な一切を持参せねばならない。過酷なサバイバルキャンプ。ここに世界中から赤ん坊からお年寄り、白んぼから黒んぼ7万人ものモノ好きたちが集まってくる。つかの間の世界村だ。1970年代後半から始まった模様で、ま、当時から言うとヒッピー文化の名残り、なのかもしれない。詳細はBurning Man=バーニングマンでググってもらえればわかる。
前置きが長くなってしまったが、そのビジョンの根底で呟かれているのがcacophonyという言葉。だいたいからしてこの主催者が定めている法則というかビジョン説明には理解しづらい言葉遣いが多く、ややこしい。ま、ヒッピーカルチャーと思えばそんなものかもしれないね。カコフォニーは元は音楽用語のようで不協和音、ピアノでいうところの黒鍵にあたるもののようで、和音にこの不協和音を織り交ぜることで音楽性が高まるというのが基本中の基本らしい。
この催しの場合に当てはめると、現実の数多ある制約に我慢できなくなったらここにきて解放されよう。本来の人間らしい自由を主体にしよう、なんてことかもしれない。当世よく使われているダイバーシティとか多様性の基礎となる用語にあてはまるようにも思える。ひょっとすると違うかも。。はみだし者とか、かも知れないし、どこにも属さない者、なのかもしれない。サンフランシスコにCacophony Sosietyという組織が本当にあるのだそうだ。これもアメリカらしいといえばそうなのかも。ま、ここは勝手に解釈させてもらって、不協和音があるからこそ社会そのものが成り立つのだ、もしくは、社会の中には好むと好まざるに関わらず不協和音が発生するのだ、なんて感じで行こうかな、と。
さて、この言葉が最近さまざまな場面にやけに当てはまることが多い、多すぎる、ので、また改めて気になりはじめたわけだ。移民難民にはじまり、いじめや不登校、アメリカ内戦になるんちゃうかと思わせる分断、あちらこちらでCacophonyだらけ、じゃないですか。昔はね、こういうの皆が薄々わかっててなんとなく触れずに棚上げみたいな感じでうまく躱してたんやね。大人な対応ってやつやね。それが今では全部表舞台にさらされ出して、対処しきれなくなってるという現実ちゃうかな。
それこそ、ダイバーシティとか多様性というきれいで進歩的風な言葉は立派やけど、実はそこを現実にするとなると、えらい困難で苦痛を伴う過程が露わになるのだということを認識しておらず、言葉だけが先走ってしまった。さて、実際に多様性を叫んでしまって、具体的な問題が起こりつつある今、どう対応していけるのだろうか、難題ちゃうかな、と思う今日この頃。
いつになるかわからんけど、ちゃんとつづく。
もしこれをご覧になった方でCacophonyの解釈ご意見などあればどうぞ。

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