我慢しないで本当に必要な合理的配慮を伝える、それは勇気のいることでもある

日本で障害者として生きていくことはなかなかつらく大変なときもある。

これは障害のあるなしに関係ないかもしれないが

昭和の根性論は昭和の自助努力追求型思考につながっていると思う。

障害があっても、努力すれば障害を克服することができる、

そんなわけないのに、いまだにそうした価値観をおしつけられることがある。

だから、胸を張って

「自分にはこういう合理的配慮が必要です!」

と主張するのはなかなか勇気がいることなのだ。

だから、自分に必要な配慮、自分が人権としておmっている権利を忘れてしまい、どうにか頑張らないと!という方向になりがち。

もちろん、自助努力をあえて選択している障害者はそれでいいと思う。

でも、多くの障害者がしなくてもいい努力を強いられている社会はおかしい。

例えばこんなかんじ。

「白杖1本で全国どこでも一人で出張に行けて当たり前よ。もし、一人でいけないならそれはあなたの白杖歩行スキルが低いからなんじゃない?だから、もっと訓練をしてから仕事につくことを考えたらどう?」

なんか、ものすごーく正論に聞こえてしまう。少なくとも私は。

でも、実際は歩行スキルは人それぞれ。

確かに白杖1本で国内どころか世界中を出張しているような人もいる。

だが、全員が全員そんな超エリートスキルをもっているわけではない。

私もこれまで研究調査で全国の盲学校をわたりあるいてきた。

当然、そこに介助者はいない。

移動と移動は人々の善意に頼って、宿泊先ではホテルの人にサポートをしてもらってなんとかこなしていた。

でも、色々な人に迷惑をかけたくない、色々な人に援助依頼するのは精神的に大変、そんな理由からホテルの朝食がビュッフェ形式だとそのサービスを使うことを諦めてしまうこともある。

もし、これらの出張で移動の心配や食事の心配をせずに仕事に集中することができたら、もっと高いパフォーマンスを発揮できたはず。

社会が当たり前のように合理的配慮として出張に介助者を1名つけるシステムになっていたら?

これ、アメリカでは当たり前に提供されている合理的配慮だ。

日本では、そんな甘やかした合理的配慮を提供したら障害者のスキルがもっと落ちるからやめたほうがいいという議論が根強い。

私たち障害者は健常者より頑張って生きていかないといけないのだろうか?

私たち障害者はもっと楽に快適に生きてはいけないのだろうか?

どうしても合理的配慮を要望するときに「我慢」、「遠慮」してしまう障害者は多いはずだ。

もっと胸をはって、当たり前の権利として主張できる社会、

それを実現するためには伝える障害者側とそれを受け取る障害のない人側、両方の協働が必要不可欠なのだと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?