あなたの人生に二度来ないチャンス~東大寺ミュージアムへ行くべき3つの理由
あなたが東大寺ミュージアムに行かなければならない3つの理由
奈良 東大寺。
今から約1300年前に創建したお寺です。
ここには素晴らしい仏像や仏教美術が沢山あり、それだけでなく現在も祈りの場として人々の心のよりどころになっています。
こちらの境内には戒壇院というお堂があります。
かつて僧侶はもれなく「戒律」という僧侶であるために決まりを守ることになっていました。
戒壇院は「戒律」を守ることを誓って正式な僧侶となるための、重要な儀式をする場所です。
この戒律の話もめちゃ面白いのですが、今日は置いておいて・・・
このお堂には奈良時代の四天王さんがいらっしゃいます。
戒壇院自身が修理のため閉堂になっていた間、四天王さんは東大寺ミュージアムにお移りになっていました。
めでたく戒壇院が再び御公開になるので、それにあわせて四天王さんもミュージアムからお出になります。
仏像はお堂で拝観したほうが、その背景や空気や、歴史観とともにわかってよりよい・・・というのが私の持論です。
でも一方で、博物館などではふだん見づらい場所がよく見えたりして「仏像鑑賞」にはとても適しているのです。
みほとけはお堂にいらっしゃるもの、ということを大前提として、ぜひこの四天王さんはミュージアムで拝見いただきたい。
それはこの先たぶん、あなたの一生にもうないチャンスだからです。
もうちょっと詳しく3つにまとめました。
①「塑像」という作り方
そのひとつがすでに申し上げた「こんなチャンスはおそらく、もうあなたの一生には二度と来ない」からです。
四天王さんは、今後も戒壇院の外に出る機会があるでしょう。
でもそれは何十年、何百年という単位ののちです。
現在の戒壇院は、江戸時代1732年に再建されたものです。
そこから数えて大規模修理は今回が初めて。
つまり約300年経って、御仏を移動させてまでの工事なのです。
あなたが生きている内に、またこんな機会はないのです。
でも、たとえばどこかよその博物館に呼ばれて展示される、ということがあるかもしれません。
しかしそれはとても可能性が低いのです。
それは四天王さんの材質にあります。
仏像は木造や銅や漆や・・・色んな素材で作られますが、「塑像」という土でできているのが四天王さんです。
土って私たちもよく知っているあの土です。
ちょっと信じがたいのですが、土でもって形を作り、乾かしたのが塑像です。
焼いてすらいない。
こんな簡易な製作技法があるだろうか?と思うのですけど、あるのです。
戒壇院以外の塑像として、新薬師寺の十二神将、法隆寺の五重塔の中にいらっしゃる群像、法隆寺 中門にいらっしゃる仁王さんが上げられます。
でもそれ以外に、有名な方がいらっしゃるでしょうか?
塑像は大変こわれやすく、傷みやすい。
なのでもっと作られたかと思いますが、残らなかったのです。
元々塑像が開発?されたのは、日本以外の国。
おそらく日本のような湿気が少ない場所です。
乾燥した土地なら、土の仏像も乾いて保存がたやすかったでしょう。
高温多湿な日本では、塑像の保管が難しく、しかも壊れることが多かった。
飛鳥時代の仏像がよく残ってくれているのは、銅でできてたりして「丈夫だった」というのがあると思います。
つまり、戒壇院の四天王さんは、外へ動かすにはとてもリスクがあります。
同じ境内の東大寺ですら、その作業は手に汗握るものだったでしょう。
そして、今後そんな危険を冒してまで、寺外に持ち出すことは考えにくいのです。
②奈良時代の仏像の傑作
奈良時代はあの「正倉院の宝物」も手がけられた時代で、現代の私たちがどんなにあがいても作れないような「すごいもの」が沢山作られた時代です。
仏像もことのほか素晴らしく、「天平の美少年」と名高い阿修羅が作られたのもこの時代。奈良にはそんな唯一無二の仏像の宝庫なのです。
その中でも戒壇院の四天王さんは、できばえが素晴らしい。
このすごい仏像を、ぎらぎらと見つめて、まさに細部まで鑑賞できるのは今だけ。
戒壇院にお戻りになっても拝見できますが、微妙に遠くなるのです。
今、東大寺ミュージアムの正面玄関に、四天王さんのどアップ写真が飾られています。
館内で写真は撮れませんので、このパネル写真をまた写真に撮ってきました。
四天王さんは、東西南北を守る仏教の守護神です。
武将なので甲冑を身につけています。
耳の所に翼のような飾りがあり、ヘルメット部分とその下の首を守るような垂れ?があります。
このヘルメット部分の硬質さ。これを土で表現しているのです。
その下にある顔、皮膚はまた皮膚の表現です。
単純に造形しているのではないことがわかります。
そしてその顔も、頬のあたりのライン。
なんとも緊張感があります。
おでこや鼻の凹凸を作るのは当たり前ですが、この頬から頬骨、顎までの顔の表面のメリハリを作っている。
ギリシャ彫刻の秀作なら、こういう表現も見たことがあるでしょう。
でもこれは、日本の、奈良時代の仏像です。
こんなすごい表現をした仏像があることを、あなたは知っていましたか?
日本の仏像の技法に「玉顔」というものがあります。
目の中にガラスをはめ込んで、きらりと光らせる。
これによってより生き生きとして表現が可能になったのです。
奈良時代にはまだない技法でした。
しかし、この増長天さまを見てください。
玉顔いりますか?と聞きたくなるほどの目力です。
この目力を作っているのは、顔全体の造形、目の形、目尻の形、シワ、全体としての表情・・・
そして「こんなオヤジいる」という既視感ではないでしょうか。
奈良時代の仏像は、後半とくに躍動感にあふれています。
当時の都平城京は国際都市だったといわれ、色んな人種のかたが行き来していました。
その活発な感じ、エネルギーに満ちている感じが仏像にも反映されているようです。
当時の人々を写し取ったような描写。それを可能にして優れた技術。まさに当時の仏像の中で一・二を争う傑作です。
戒壇院の四天王さんに会うことは、奈良時代のひとに会うことなのです。
③壮大なる前フリ・・・良弁僧正1250年遠忌
ところで今年は、東大寺の初代別当良弁僧正の1250年遠忌です。
別当とは東大寺のトップのこと。
東大寺を作ったのは聖武天皇というかたですが、この良弁さんなくしても東大寺はありえませんでした。
この大事な方が亡くなって1250回忌を迎えるのです。
1000年以上も死後のお弔いがある!ことで、どれだけ偉大な人か想像つくでしょう。
この良弁さんがプランニングしていわれるお堂が「法華堂」です。
現在、修二会(お水取り)の舞台にもなってる二月堂というお堂の隣にあります。
この三月堂は、東大寺で最も古いお堂です。
ここには現在も素晴らしい御仏ばかりがおわして、すべて国宝。
もう、もれなくすべて!国宝の仏像です。
この三月堂の仏像は、最初は違う顔ぶれだったと言います。
良弁さんは『日本霊異記』という奈良の仏教説話集にも登場する有名人。
そしてなにやらあやしげな「術」を使って、儀式をしていた・・・ということがお話にもなっている人です。
そして、儀式の結果はぎ(ふくらはぎ)からビームが出て(なんじゃそら!?)その光が聖武天皇の元に届き、ふたりは知り合ったと言いますから・・・いやはや、どんな謎めいた儀式をしてたのでしょうか。
この良弁さんが作ったお堂・三月堂に安置されていたのが、今回ご紹介している「戒壇院の四天王さん」なのです。
つまり、四天王さんも、チーム良弁さんの一員。
なにかしらの儀式に参加していたのです。
いったいそれは何なのか・・・
良弁さんは、実のところ何者なのか・・・
四天王さんの本当の役割は・・・?
今年東大寺さんは、良弁さんの1250年遠忌にまつわる法会や行事でいっぱいです。
どこまで明らかになるかわからないのですけど、今年最も「熱い」良弁さんに関わりのある四天王さんを、間近で見つめられるのは今だけ・・・なら見ておくべきではないでしょうか。
東大寺ミュージアムでの四天王さんの拝観は2023年8月27日(日)までです。
ぜひお運びください。
s巻頭イラストはh.harikoさんのものをちょうだいしました。ありがとうございました。