[エッセイ07]甲子園観戦の思い出
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☀この記事はクロサキナオさんの企画参加記事です☀
#クロサキナオの2024AugustApex
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ども、ならなすおです。
久方ぶりにエッセイを書いてみます!
テーマは、「夏の甲子園」
不肖わたくし、元甲子園球児で、大会屈指の好投手と言われて鳴り物入りで甲子園に、、、
、、、すみません、嘘です。
高校、野球部ですらないです(バスケ部)。
野球は小学校高学年と中学でやっていましたが、才能がないことに気づき、挫折しました。
私の思い出は、小学校高学年の頃、地元の高校が甲子園に出場したので、それを応援に行った時の話です。
楽しかったー。
そして、人間形成にも一役買った旅となりました。
懐かしく、昔を振り返りたいと思います。
しばしお付き合いいただければ幸いです。
今回は、ですますではなく、口語体で書きますね。
あと、一人称は「筆者」とします。
ご了承ください。
それでは、本編、いきます!
(1)地元高校が甲子園へ
今日は2024年8月7日。
夏の甲子園大会の開会式の様子が、テレビから流れてきた。
誇らしげに行進する球児達を見ていて、ふと、昔の記憶がよみがえる。
筆者は、一度だけ、甲子園で高校野球を観戦したことがあった。
小学校高学年のひと夏。
忘れられない、素晴らしい思い出だ。
*
1980年代の後半、筆者が小学校高学年の頃、地元の「大分県立佐伯鶴城高校」が夏の甲子園出場を果たした。
大分県では、津久見高校、大分商業高校などが強豪として知られており、その他の高校が県予選を勝ち抜くのは稀で、県南の佐伯市にある佐伯鶴城高校が甲子園に出るのは、通算2度目の快挙だった。
父がたまたま同校の卒業生で、寄付に応じた関係で、「臨時列車0泊2日の弾丸応援ツアー」の案内が届く。
野球少年だった筆者は、父にせがみ、一緒にそのツアーに参加させてもらうことにした。
娯楽の少ない当時は、テレビではプロ野球中継やプロレス中継が隆盛を極めており、野球人気は絶大だった。多くの少年が、「プロ野球選手になる」という夢を持ち、30円のポテトチップのオマケで付いていた選手カードを集めたものだ。
高校野球は、その夢の第一歩。
「プロになるかもしれないお兄ちゃん」が集まる場だ。
面白くないわけがない。
心が躍り、出発前日はよく眠れなかった。
「列車には、どのくらい乗っているのかな?」
「甲子園球場、どんなところだろう?」
「鶴城高校、勝てるといいな。」
翌日、応援する同校の生徒さん、父兄の皆さん、そしてたくさんの子どもたちの大きな期待と夢を乗せて、臨時列車は走り出した。
(2)臨時列車の旅
臨時列車は、「鶴城号」と名付けられていた。
佐伯市の高校が甲子園に出るなど、地元では盆と正月が一緒に来たかのような大騒ぎだ。
当然車内は満員だった。
この手の企画列車は、既に決められているダイヤに抵触しないよう慎重に計算されて運行されるのだろう。
鈍行の乗り継ぎ程時間はかからなかったが、特急ほどスムーズでもなかった。
今にして思うと、臨時列車というのは、大応援団を安価に輸送する合理的な手段だ。
その時期、新幹線等の交通手段も、球場周辺の宿泊先も、空きがないに違いない。そして価格も高騰しているであろうことは容易に想像できる。
そうした中、寄付の大半を選手の快適な移動と宿泊に費やした学校としては、残った経費で応援団と父兄、そして夢溢れる少年たちを球場に運ぶため、旅行会社さんや運送会社さんと折衝してくれたのだろう。
遅ればせながら、当時ご尽力いただいた関係者の方々に、心から御礼申し上げたい。
発車は早朝だっただろうか。
夕方の第4試合に間に合うよう、電車は走り続けた。
田舎の路線は、風光明媚な景観を楽しめる箇所は少なく、大半は左右を山かガードに囲まれて景色が見えない。
おまけに、東九州の佐伯-小倉間は、相当揺れる。
列車なのに、乗り物酔いするレベルだ。
乗り物に弱い筆者は、どうだったか?
・・・・・期待に胸を膨らませて睡眠不足だったのが幸いした。
往路、そして応援で疲れ切って乗車した復路とも、ぐっすり寝ていたのだろう。
途中の景色は、全く覚えていない。
せっかくの紀行文、旅の景色を添えたいところだが、そんな事情なのでご容赦願いたい。
旅の風流を感じるには、まだ筆者の人生経験は十分ではなかった。
さて、列車は球場近辺にたどり着き、一同、どこかしらの駅から、臨時バスに乗り換えて球場入りした。
球場前のアスファルトを踏んだ時の強烈な輻射熱と、澄んだ青空は、覚えている。
(3)甲子園球場
甲子園球場に入り、まずその客席の広さに驚いた。
地元にも「佐伯球場」という球場があったが、スタンド(客席)というのは内野に少しあるだけで、外野席は芝生だったと思う。
甲子園名物の「アルプススタンド」に移動し、高校生の応援団から応援用のうちわを受け取り、応援の指導を受ける。
列車内でも少し説明があったらしいのだが、筆者は寝ていたので、聞いていない、、、
球場では、若いスタッフが「かちわりいかがですか!?」「ビールいかがですか!?」と元気に涼を届けていた。
筆者、そこで初めて「かちわり」という言葉を聞いたのだが、なるほど、「かちわり氷」は観客が求める素晴らしい商品だ。
だが当時、九州の片田舎では、「水」「お茶」などの製品を有料で消費する習慣はまだなく、「かちわり」は筆者の目にはぜいたく品として映っていた。
父も、ビールを買う様子も、「かちわり」を買う様子もない。
幸い、1980年代の日本は、2024年のような、外にいるだけで熱中症に警戒しなければならないような危険な暑さではなかったため、「かちわり」は買わずともやり過ごせた。
その後、試合開始を待つ間、応援の練習とともに、アルプススタンドの一体感が醸成されていく。全員が「鶴城高校を応援する」ために集まったメンバーだ。その一体感たるや、もはや家族のそれに近い。
近くの席に座った少年たちとも、すぐに仲良くなることができた。
さぁ、球場内も、スタンドも、準備が整ったようだ。
いよいよ、試合が始まる。
(4)鶴城ファイト!
その日は佐伯鶴城高校の初戦。トーナメント表上は2回戦で、対戦相手は、仙台育英高校だった。
仙台育英高校といえば、後に、大越基投手を擁して吉岡雄二投手の帝京高校と甲子園決勝を戦うなど、名門、強豪のイメージだが、鶴城高校と戦った当時はまだ新興勢力で、それほど有名ではなかった。
試合中、鶴城の攻撃中は立って声が枯れるまで声援を送り、守備中は座って推移に固唾をのんだ。
鶴城が点をとれば、ついさっき初めて会ったばかりの少年と抱き合って喜ぶ。
配られた応援用のうちわは、叩きすぎてかなり早い段階でぼろぼろになってしまった。
スポーツ観戦の一体感というのは、消耗は激しいが、とても高揚でき、心地良いものだ。
冷静にテレビを見ている日常の観戦とは全く違う体験は、少年時代の筆者に深く刻まれた。
試合は、鶴城が1回に先制するも、その後逆転を許し、再度逆転するという息を飲むシーソーゲーム。
結局、4対3で、鶴城高校が勝利することができた。
客席で選手と一緒に校歌を歌う父が、誇らしげだった。
この日、鶴城高校の応援には、一つ、特徴があった。
通常の応援では、「かっ飛ばせ!○○! △△倒せ!」というパターンが多いと思う。
鶴城は、「かっ飛ばせ!○○! 鶴城ファイト!」というパターンを使っていた。
「相手を倒す」というよりは、選手個々にベストを尽くしてほしい、という思いを込め、そのスタイルを採用したらしい。
自分たちがベストを尽くした先に、結果がある。
相手も全力で戦っている。
勝敗のみならず、双方が全力を出し切る事こそ重要なのでは?
この時の鶴城の応援スタイルに、筆者は、人生の「勝敗観」を左右されるほど影響を受けた。
勝利はもちろん欲しい。
だが、優先順位として、相手が倒れることを第一に望む訳ではない。
応援団が決めたのか、先生なのか、実に清々しい応援スタイルだ。
少なくとも一人の少年の心を強く打ち、人生の方向性を少しだけ指し示してくれた。
(5)おわりに
満員の列車、青い空、甲子園の熱気、、、
ひと夏の旅は、とても楽しい思い出として残っただけでなく、筆者の人間形成にも大きな影響を与えた。
現代。
人々は多忙を極め、それほど頻繁に旅行に行けるわけではないかも知れない。
外は暑いので、熱中症に最大限の警戒をする必要もあるだろう。
だが、それらの事情を差し置いても、旅はいい。
特に子どもたちが非日常を体験する機会は、何物にも代えがたい貴重なものだと思う。
高校野球に思いをはせる子どもたちへ。
オリンピックをテレビで見ている子どもたちへ。
そして、困難や生きづらさを感じている子どもたちへ。
良い旅を!
世界は、君たちが懸命に生きるに値するほど十分に広く、心と五感を揺さぶる代物だ。