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[エッセイ03]記念日

ども、ならなすおです。

今日は、7月4日です。

世界史的には、「アメリカ独立記念日」ですね。
1776年7月4日。
今や経済、政治、軍事などで世界を牽引する米国が、英国から独立した日です。

自分史的には、「脳卒中の手術を受けた日」です。
2022年7月4日。
生命の危機を体験し、脱した日です。
「まだ2年しか経っていないんだなー」「あれから2年生きていられたなー」など、様々な感慨が去来します。

1年は、365日(時々366日)しかありません。
毎日が歴史上の重要な日であり、誰かにとって忘れられない日だと思います。

今回のエッセイでは、そんな「記念日」について、とりとめなく綴っていきたいと思います。
「マイライフ」という映画のネタバレがありますので、これから観る方は離脱を推奨します。

では、本編、スタートです。

(1)9月11日

私が大学院を出て就職したのは、2000年でした。
まだ20代。
当時はたくさん遊びましたし、仕事も要領が悪いながらも頑張っていました。

2年目の2001年、彼女ができました。
職場恋愛というやつです。
8月頃から一緒に遊ぶようになり、交際を申し込んだのが、2001年9月11日でした。
そう。
アメリカ同時多発テロ事件のその日です。

その日は、デートして、一回それぞれ家に帰りました。
私は家で、同時多発テロの映像をテレビで見ました。
貿易センタービルに旅客機が突っ込んでいく映像。
・・・フィクションとしか思えませんでした。

ですが、ものすごく不謹慎で申し訳ないのですが、その日の私は「彼女に告白したい」ということで頭がいっぱいで、何故かはわからないんですが、「今夜のうちに告白しなきゃ」と思っていたんです。

ガラケーで彼女に連絡し、彼女の家に近い公園に呼び出して告白しました。
答えはOK。
不謹慎を顧みず行動して、結果的には良かったです。

その彼女が、妻です。
12月に彼女にプロポーズ、翌年3月に入籍し、12月に息子が誕生しました。

恋愛も、結婚も、「赤い糸」とかいう人もいますが、私は「タイミング」だと思います。
2001年9月11日、世界の歴史に残る同時多発テロの映像を見ても、なぜか自重しなかった告白。
多分正常な判断ではないですよね、それ。
でも、その後の生涯を共に生きたいと願う相手に気持ちを伝えるというイベントを、直感的に世界史より優先した、ということなのかな、と思います。

若かりし頃のデート画像
両者こんなに美形ではないです
(AIで生成)

(2)3月12日

妻と入籍したのが、2002年3月12日でした。
その後、5月に結婚式を挙げたのですが、その頃妻はつわりで辛かったようで、「結婚式を挙げた日」にはあまりいい思い出がないらしく、わが家では、入籍日を結婚記念日として扱っています。

結婚記念日は、平日か休日かなど、その年の状況に応じて、家族で出かけたり、晩御飯を外食したり、といった過ごし方をしていました。

忘れられないのは、2011年3月12日(土)。
東日本大震災の翌日の結婚記念日です。
前年に2人目の子(娘)を授かり、首が座ってようやく落ち着いてきた時期でした。
当時、私は県庁に勤めていて、商工労働部(経済や産業を振興するセクション)の部長をサポートする班にいました。

2011年3月11日(金)。
県議会の真っ最中で、「議会担当」だった私は、多忙を極めていました。
午後、ちょっと揺れました(所在地は九州です)。
状況を知りたくて、職場のテレビをつけます。
そこで目にしたのは、東日本の大きな揺れの情報と、大津波の信じられないような映像。
私はその現場を体験していないので、記述は控えます。
それを知らない人間が、想像でそれを語るべきではないと思うので。

当時のポストの職業人として私にできることは、「県経済への影響予測と迅速な対応」でした。
すぐに議場にいる部長にメモを入れ、議会終了後に部長室で関係課長を交えて対応が話し合われました。
部長の判断のもと、当面、全力で情報収集することと、協力を仰ぐ可能性のある企業さん、団体さん等に連絡しておくこと、などを決めました。

翌日。
結婚記念日。
世界の最大の関心事は、福島第一原発の危機的状況でした。
何か食事をしたのでしょうが、覚えていません。
これからどうなるのか、今自分が採るべき最善は何なのか、家族とともに今日をどう過ごすべきなのか、、、

それから毎年、結婚記念日を祝う前日が、祈りを捧げる日となりました。
今を生きる日本人として、あの日を忘れたくないな、と思います。


(3)7月4日

2022年7月3日(日)。
保育園に就職して7月1日(金)、と2日(土)を過ごした私は、初めての休日で家にいて、朝から強烈なめまいに襲われていました。
まっすぐ歩けない状態。
目が回りすぎて吐き気がします。

「これは多分脳がやばいやつかも、、、」
「でも自分で病院を探す気力がない、、、」

妻にメッセを入れて、単身赴任先のアパートまで来てもらいました。
3時間ほどで妻が到着(隣の県に単身赴任していたので、車で2時間半くらいかかります)。
すぐ病院を探して連れて行ってくれました。
MRIで状況を調べ、即入院。
「小脳血種」という脳卒中の類型でした。
「早めに手術をしないとやばいです。空き状況を確認中です。」
と言われていたんですが、幸い翌日の4日(月)に手術できました。
命を拾いました。
(この辺、詳細は「大病体験記」に書きます。)

その後、入院している間、ネットでいろいろと情報収集しました。
脳卒中の予後は、あんまり楽観視しない方がいいみたいです。
まず、主要な原因である「動脈硬化」。
傷んでしまった血管は、劇的に改善することはなく、「節制してこれ以上悪くならないようにする」
という対応になります。
タバコ、やめました。
コレステロールや塩分の摂取を控えるべく、食生活を改善しました。

それでも、脳卒中の再発率は、結構高いようです。
3年後生存率、5年後生存率、10年後生存率など、いろんなサイトで情報を見ました。
暗い気持ちにもなりましたが、「自分の生活習慣の蓄積」なので、仕方ないっちゃ仕方ありません。

今後何年生きられるかは、わかりません。
2年は生きられました。
昨夜、夜中にめっちゃビールを飲んでそら豆の揚げたのを食べたくなりしたが、コンビニに行くのを我慢しました。

ちょっとでも多く、家族で7月4日を迎える幸せを祝いたいです。

妻の運転で病院へ
わが家の車は、本当はN-BOXです
外車じゃありません
(AIで生成)


(4)おわりに

大好きな映画に、「マイライフ」というのがあります。
マイケル・キートンと、ニコール・キッドマン主演のアメリカの作品。
末期がんを宣告された男が、生まれてくる子供のためにビデオレターを制作したりしながら、残された日々を精いっぱい生きていく物語です。

「マイライフ」の中で、夫婦が遊園地デートをするシーンがあります。
男が、昔から苦手だったジェットコースターを克服します。

男は、妻に、その日が「D-DAY」だと語ります。
D-DAY。
DEATH DAY。
医師に余命宣告された、期限の日だったのです。

詳細は触れませんが、彼は残された日々を充実させる生き方を実践し、余命を少し伸ばしてD-DAYを妻と過ごすことができたのです。

生き方によって、最悪の記念日を最高の記念日に変えることは、あり得るのかもしれません。

今後私の人生には、子の結婚、孫の誕生、親の死、もしかした南海トラフ巨大地震、そして自分の死など、様々な記念日が増えていくと思います。
嬉しいことも、悲しいことも。

万事をひっくるめてLIFEなんですよね。
で、忘れられない日が、記念日。

ん?
結局私は、何が言いたいのか?

「家族に感謝」とかいうチープな言葉ではないです。
今、最適な表現が出てこないです。
頑張って、「大病体験記」で表現します。

すみません。
オチがないです。
ご容赦ください。

ご覧いただき、ありがとうございました。

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