空虚な自分
自分のことを不幸だと思ったことはない。
客観的に見てもそうだろうし、主観的に見てもそうだ。
特別過酷な過去を背負っているわけでもなく、ごく平凡な日常を送ってきた方だと思う。
じゃあ、自分が幸福かと聞かれたら、
正直、首を縦に振ることはできない。
いくら「お前は恵まれてるよ」「お前は幸せな人間だよ」と言われても、自分でそう思えない以上、思えない。
人の幸福感を、他人が強制的に決めることはできないのだ。
わたしと同じような感覚を持っている人は、きっと少なくないと思う。
これといった不満もない毎日、でも何か違和感がある。
ずっと何かが胸につかえている。
この胸のつかえは、一体どこから来るのか。
その正体を突き止めたくて、自分を見つめようとしてみても、いったいどうすれば自分を見つめられるのだろう。鏡を見て話しかければいいのだろうか。いや、そこにあるのは、おそらく自分の顔であるだろうものを反射している物体に過ぎない。
自分の内面を覗き込もうとしても、何だか奇妙な感覚に陥る。内面?どこにあるのかわからない。普段は何気なく存在を感じている、そういったものを、改めて意識してみようとすると、一体それがどういうものなのかわからなくなる。
試しに、目を閉じて、声に出さずに、自分で自分に呼びかけてみる。ああ、これは少し近いかもしれない。自分というものの存在を少しは感じられるかもれない。
しかし、その中は、あまりに真っ暗で驚く。目を閉じているからそう感じるのかもしれない。あるいは、自分が汚れ過ぎているのかもしれない。あるいは、自分の中が空洞すぎて、何も見えないからかもしれない。
どれもありそうだ。しかし自分が呼びかけても呼びかけても何も響かないところを考えると、きっと自分の中には底すらなく、ただただ果てしない空洞があるだけなのだという気がする。
ただただ、呼吸ができて、動くことができて、食べることができて、飲むことができて、簡単なことを考えられて、簡単なことを話すことができるだけだ。
その中には、ほとんど何も詰まってはいない。
それがわたしという人間だ。
この文章も、そんな人間が、無意味に書いているに過ぎない。
だから別に何も結論など出ないし、出すつもりもない。
他の人はどうなのか、それはわたしには知る由もないが、もしかしたらみんな同じようなものなのかもしれない。いや、それとも、ただわたしという人間の欠陥なのかもしれない。
何も詰まっていない、ただただ空虚な自分。
だから、何もしないでいる時間というのが耐えられないのだ。暇になれば、スマホを手にとったり、SNSを開いたり。多忙で、絶え間なく何かをやっている時は、空虚な自分を感じずに済むけれど、少し時間ができれば、そういった自分を感じてしまう。
自分の意志。そういったものはもちろんあるのだけれど、根本的に何かを成し遂げたいという強い気持ちがあるわけでもなく、結局のところただ惰性で生きているに過ぎない。特に死ぬ理由がないから生きているに過ぎない。これを空虚と呼ばずにいられるだろうか。
特に死ぬ理由がないから生きているに過ぎない。生きるのは辛く苦しいけど、なんとなく惰性で生きられてるから、このまま生きてればいいかな。そんな感覚を持っている人は、きっとわたしだけではないのではないか。
しかし、同時に疑問にも思う、完全に空虚な存在というものは存在するのだろうか、と。完全な人間も存在しないように、完全に中身が無い人間も、存在しないのではないか。
きっと完全に空虚な自分だったら、ちょっとした悲しみも、ちょっとした嬉しさも、ああしたいこうしたいという意志も、自分の中から湧き上がってくることはないだろう。いくら取るに足りないレベルのものでしかなくても、自分なりに深く感動したり、強く心を揺さぶられたりするのは、自分の中が完全な空洞ではなく、何か、自分でもよくわからない何かが存在するからなのだろう。それを主体性と呼ぶならば、そうなのかもしれない。
何かに、誰かに出会って、強く胸を打たれたとき、自分の中に何かを感じられたはずだ。そこで、自分というのを強く感じることができたはずだ。
そういう意味では、何かとの繋がり無くしては、自分は自分を見つめることができないのかもしれない。ちょうど、鏡に映さないと自分の顔を見ることができないように、内面も、それを映す何か、それを映す誰かがいることによってでしか、そのあり方を確認できないのかもしれない。
それはある意味では当たり前なのかもしれない。生まれてから一度も誰にも出会わず、何にも出会わず1人で生きていたら(そんなことは不可能なのだが)、その人は何も感じることができず、それこそただ植物的な存在になってしまうだろう。
誰かがいて、その人に関係する自分。何かがあって、そこに関係する自分。
そういった、様々な「関係」のなかで生きている私たち。
SNSが普及して、繋がりが容易く広げられる分、かえって希薄になってしまったような、奇妙な私たちの関係性。
そこで、かえって孤立や虚しさを感じてしまうような、そんな感覚。そこで否応なしに付き纏う、その関係の希薄さと、何より自分の空虚さ。
これは現代の病なのだろう。そしてその病と、どう向き合ったらいいのか。
その答えはわからない。ただ一つ言えるのは、自分を取り巻く関係性を、大事にしていくことの大切さ。そこを強く太くしていくことが、重要になってくるんだろうということ。
いや、うーん、何かちょっと違うかもしれない。
簡単に答えは出せないね。答えを出せないのに、出せたように書いてしまうのは不誠実だから、出せないものは出せない、とはっきり言っておきつつ、今回は終わりにしたいと思います。
読んでいただきありがとうございました。