生きづらさはどこから来るのか

皆さんこんにちは。お久しぶりです。

今日は、私が日頃思っていることについて書いていこうと思います。

現代はずいぶん便利な世の中になり、私たちの生活は明らかに豊かになっています。しかしそれでも、いや、だからこそ余計に、日常の中に生きづらさを感じている人はきっと多いと思います。

私たちが生きづらいと感じる理由は何でしょうか。人によって様々だと思います。コンプレックスとか周囲からの評判とか、罪悪感とか…

しかし、私たちを囚える様々な悩みは、実際は、私たちが作り上げた虚像に過ぎず、私たちは私たち自身が作り上げた価値観に苦しめられているのです。

例えば、「自分の容姿が悪い」と悩んでいる人はいると思います。もっとこんな顔、こんなスタイルになりたかったけれど、そうはなれなかった、など。
昔から、「美人」という価値観はあったし、「男前」という価値観もありました。
しかしそんなものは、実際は架空の価値観に過ぎないのです。「美人」というものを手に取って眺めることもできないし、食べることもできません。私たちが勝手に「こういう顔の人は美人だ」とか「人間はこういう体であるべきだ」などと決め付けているに過ぎません。

なにしろ、日常生活のなかで、鏡に映ったり、写真に写ったりするとき以外、自分の顔は見えないのです。自分の本物の顔を三次元的に見れる人はいません。私たちが見ることのできる「自分の顔」は、必ず二次元か、模倣された三次元に過ぎない。
何が言いたいのかというと、自分にとっては、自分の顔なんて本来どうでもいいはずなのです。自分は自分の顔に評価のつけようがない。私がどんな顔をしていようと、目で見ることができ、鼻で嗅ぐことができ、口で食べ話すことができ、耳で聞くことができるなら、その配置がどうなっていようと、大きさがどうだろうと、自分には関係のないはずなのです。
しかしそれでも私たちが自分の顔を気にするのは、「他人の目」があるからです。他人が私の顔を見て、様々な判断を下すからです。しかしそんなことは、よく考えればどうでもいい話なのです。他人が勝手に自分の顔を評価し、美人だのブスだの男前だのブサイクなど、勝手に価値観を押し付け合ってるに過ぎない。余計なお世話もいいところです。私の顔が整っていようと整っていまいと本来は他人には何の関係もないはずなのです。誰にも人の人生に干渉する権利なんてない。
もちろん、きっと誰しも自分の容姿を褒められたら嬉しいし、貶されたら悲しいです。でも、そういったものは、結局他人の中だけの価値観だということを認識しておくべきだと思います。何かもっと大切なことで悩んでいるときに、容姿のことを気にしていられるでしょうか。自分が生死を彷徨っているときに、身だしなみなんて気にしていられるでしょうか。子供を飢えさせてまで、他人の目を気にして高級な服を買う必要があるでしょうか。とても辛いことがあって、眠れないほど悩んで、メイクもせずに出社したからって、そのことで責められる必要なんてあるでしょうか。
他人の評価に、振り回される必要なんてないのです。

また、「時間が守れない」ということに悩む人もいると思います。しかしそもそも、時間とは何でしょうか。私たちが、0時、1時、2時…と時計に記し、それを共通認識としているだけです。時間の流れも、本来では一定ではありません。高所では時間の流れは早く、低地では遅い。あくまで時計の中の時間というのは、私たちが便宜的に作り上げて設定したものに過ぎません。
長いでも短いでもなく、あるのはただ時の流れのみです。
ですから、こう捉えるようにしましょう。時間の守れない人は、その設定の中に収まることのできない人なのだ、と。その人の中での時間は、他の人が定めている時間とは少しずれているのです。もちろん、そういった人は社会の中で生きていくには、少し生きづらさを感じるでしょう。しかし、時間が守れないから生きていけないかと言ったら、そうではありません。その人にはその人が得意とする世界があるはずなのです。だから、時間が守れないことに悩むのではなく、その中でどうやって周りと付き合っていけばいいのかを考えればいいと思います。
その設定の中に収まることのできない人が、「人は時間を守るべきだ」という価値観に縛られる必要はありません。

こう考えてみると、わたしたちが悩んでいることの多くは、実際はそれほど悩む必要のないことなのかもしれません。

全ての物事は、捉え方次第です。「客観的事実」というものは存在しません。全ての物事は、誰かの認識の中にしかあり得ないのです。

その中で様々な人が作った「こうするべきだ」「こうあるべきだ」という価値観、これは私たちが歩む道を踏み外さないようにしてくれる反面、生きる道を狭くし、窮屈にします。

私たちの間にある様々な「こうあるべきだ」に全て従おうとしたら、わたしたちの人生はきっと面白みの欠けたものになるでしょう。

ですから、様々な「こうあるべきだ」という価値観に対して、「自分にとって本当にそうである必要があるのだろうか」という疑問をまずはぶつけてみて、その上で「自分はどうしたいのか」ということに目を向けてみて、「こうあるべきだ」という価値観と、見比べてみてください。「こうしたい」という欲求は、紛れもなく自身の中から発する衝動である一方、「こうするべきだ」という価値観は、どこにも実は正体のないものなのです。

誰が定めたのか、誰のためのものなのかよくわからない価値観に縛られるよりも、もっと自分の声に耳を傾けて、自分の中の衝動に忠実になって、自分を信じて生きていくことで、わたしたちの人生は少しでも生きやすいものになるのではないか、と思うのです。

なかなか、思うようにはいかないのですけどね。

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